Write off the grid.

阿部幸大のブログ

アートとしての論文 人文系の院生が査読を通すためのドリル

0.Ars longa, vita brevis

 

本稿は、査読論文がなかなか書けずにいる人文系の大学院生に向けて書かれている。

 

日本の人文系の院生は研究職を目指している場合が多く、そのためには業績が必要になる。具体的には、諸学会が発行するジャーナルに学術論文を投稿して、査読と呼ばれる審査過程をクリアし、採用・出版にこぎつけなくてはならない。

 

わたしはまだ就活を経験していない院生だが、大学による公募要項を見るかぎり、業績は最低3本必要である。だから、博士号の取得を終えた時点で就活に移るとすると、博論のまえに3本の査読論文を書かなくてはならないことになる。……じつは実情はそうではないのだが、とりあえずこの前提で話を進めよう。

 

ところで以前、私は「文体を作ろう!」というエントリを書いたことがある。そこで紹介したのは、英作文の初級者から中級者に移行するための、そのためだけの、方法論だった。当時の私の英作文力は中の下だったが、初級から中級へのブレイクスルーを起こすための学習モデルを提示するのに、上級者である必要はない。

 

今回の事情もこれと似ている。授業や学会で何本か論文めいた文章を書いてはみたものの、有名な学会誌の査読になんて通りそうもない、これは通る/通らないだろうという基準さえない、ていうか全体的によくわからん、やばいかもしんない、そういった院生にむけて──つまり、つい数年前の、初級者の自分にむけて書かれている。

 

この文章で私が提供できると思うのは、日本の人文系の学生が、初級者から中級者にレベルアップするための、そのためだけの、方法論である。

 

うえで「実情はそうではない」と書いたが、じっさい就活時に査読論文が3本揃っているプレイヤーは稀であるらしい(だったら自分も書かなくてよくね?と思うならこの文章を読む必要はない)。これは誰のせいでもない、というか、就活の基準と大学院の制度が噛み合っていないことを意味しているのだろう。

 

だがそれが達成しにくいのは、能力や制度の問題だけではなく、そもそも人文学において論文の執筆方法というものがうまく言語化されて共有されておらず、「賢さ」や「面白さ」といった漠然としたイメージによって、むやみに神秘化されているせいであるように思われる。あえていえば、それは教育のせいである。

 

そこで、本稿では私の経験と挫折と試行錯誤といくつかの成功体験を活かして、論文の書き方を解体し、誰にでも練習できるよう、いわばドリル化してみたい。もちろん、これは論文が書けるようになる方法の唯一の正解などではないし、優秀な人々は「そんなことしなきゃ書けないの?」と嗤うだろう。

 

だが論文は才能などなくても、そこそこのものは書けるようになる。過去の私と同様、そのことに救われる院生が多いことを私は確信している。さらに、博論以前に「査読論文くらいは何本でも書ける」というレベルに達する院生がぐっと増えれば、人文学はもうすこし盛り上がるのではないか、とも思っている。

 

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Ars longa, vita brevis という有名なラテン語の格言がある。最初の ars は英語の art だが、これはラテン語でも英語でも、いわゆる「芸術」にかぎらず、「技術」一般を指す言葉である。「技術は長く、人生は短い」。医療も、料理も、スポーツも、そして論文執筆も、すべて一種のアートである。

 

人文系の院生は、喩えるなら、座学と観戦とぶっつけの試合だけでスポーツ選手になろうとしているような、それくらい無茶なカリキュラムで論文というものに取り組んでいる場合が多い。それで成功する人間もいるのだろうが、私には絶対に不可能だった。録画した試合をコマ送りで解析・研究しなくては、なにひとつわからなかった。

 

論文は要素に分解して練習が可能な技術の総体として出来上がっている。試合がパスやシュートやドリブルといった基本的な技術の応用の総体なのと同じだ。そして人文系のカリキュラムにはその視点が、すなわち論文をひとつのアートとして眺めるプラクティカルな視点が、著しく欠けているように思われる。

 

アートとしての論文。才能に恵まれない院生にとって、第一に必要なのはこの発想である。「才能」や「賢さ」や「面白さ」を信奉する者にとって、これはダサい。だがこのダサさを受忍して3ヶ月でも真剣に実践してみるとき、あなたは、もはや試合で周囲の院生が誰も自分のプレイを止められないことに気付くだろう。そこが研究の入り口である。Ars longa, vita brevis.

 

 

1.査読とはなにか

 

わたしは現在アメリカの大学院で比較文学というところに所属していて、日本で掲載された査読誌は、日本英文学会が発行している『英文学研究』と、日本アメリカ文学会の『アメリカ文学研究』である。とくに前者は会員数3000人という人文系では日本最大規模の学会で、私の業界では、全員がここへの論文掲載を目指すと言ってよい。同誌はひとつの基準になるだろう。


この『英文学研究』は新人賞を設けており、毎年その選評が学会誌に載るのだが、そこに、ふつう諸学会が(なぜか)シークレットにしている査読の審査基準というものが公開されている。その内実は以下のようである。

 

  1. Originality(発想・テーマ・研究方法等)
  2. Evidence(文献・資料・実例・典拠等)
  3. Coherence(論理性・論のまとまり等)
  4. Presentation(文章表現力・用語の適切さ等)

 

これを私の言葉で勝手に言い換えれば、①面白さ②勉強量③ミスのなさ④文章力、となる。これらを、各5点、合計20点満点で採点しているらしい。これは新人賞のための基準なのだが、新人の新人性についてのクライテリアがないので、人文系ならどの査読誌でも大差ないと考えていいと思われる。

 

そしてさらにこの選評には、面白いことに、例年 Originality の点数がもっとも高く、低いのは Evidence と Coherence だ、とコメントがある。そう、人文系の院生は「面白さ」に囚われるあまり、地味な作業をおろそかにする傾向にあるのだ。これは英文学会新人賞の例だが、たぶんあなたにも心当たりがあるだろう。

 

面白さは重要である。だが考えてみてほしいのだが、いやしくも学術論文である以上、「アイディアは面白いが文章は稚拙で先行研究の引用もない破綻だらけの論文」と「先行研究を踏まえて堅実な議論をしているが陳腐な論文」では、後者に軍配があがってしまう。だから、あくまで査読論文を書くという目的において、上記の偏りは致命的なのだ。

 

私は上述の各領域(とその先)についてそれぞれトレーニング方法のノウハウを自己流で培ってきたが、本エントリで紹介するのは、おもに Evidence についての数値的なデータを客観的に把握するための方法論である。だがこの4点は互いに独立しているわけではない。それは読んでいるうちに徐々に見えてくるだろう。

 

以下の方法論は、おそらくかなり奇妙、ほとんど奇怪なものである。たぶん読みながらあなたは何度か笑うだろう(面白いからではない)。だがもし、あなたが論文をなかなか書けずに苦しんでいる院生なら、これを実践して絶対に後悔はさせない。私の全業績にかけて保証しよう。

 

 

2.データ解析、フォーム編

 

論文を書こうと思うなら、まずはモデルとなる論文を見つけ、それを真似るのが最短距離である。

 

ここでは査読論文を書くことが目標なので、もっとも簡便なのは、狙いのジャーナルそのものに掲載された論文を選ぶことだ。何本か用意しよう。そして、もし可能なら、3本以上の論文を書いている著者を見つけることをお薦めしたい。理由は後で述べる。

 

ちなみに、ここでは大学の紀要や『ユリイカ』『現代思想』などの商業誌に掲載された文章は避けたほうがよい。なぜなら、それらは必ずしもあなたが目指している査読論文のルールに則って書かれているとはかぎらないからだ。そして本エントリは、そうした差異を自力で見極められない院生を想定している。媒体で選ぼう。

 

また、単著のチャプターもお薦めしない。それは、たいてい論文よりも長く、スケールの大きな議論をしているためだ。いま目指すのはあくまでも査読論文であり、それは学術的な価値のある文章として、もっともルールが明快で、もっとも規模が小さく、もっとも書くのが容易な(!)、文章である。

 

さて、お気に入りの論文を見つけたとしよう。そうしたら、以下の作業を行う。

 

1.すべての段落に番号をふって何段落あるか数える

2.第一段落が何字(外国語なら何words)で書かれているか数える

3.目視で、各段落がどれくらいの長さかざっと測定する

4.総和がジャーナルの要項にある字数制限とおよそ一致するか確かめる

 

つぎに、これを自分の書いた同じ長さの文章でもやり、数値を比べてみよう。たぶんほとんどの院生は、各段落が短く、したがって、全体として段落の数が多いはずである。

 

アカデミック・ライティングの基本中の基本は、パラグラフ・ライティング(PW)である。その基本構造は、最初にテーゼを提示し、そのテーゼを証明して、最後にもういちどテーゼを繰り返す、というものだ。すなわち、1つの段落では1つのことしか言えない。これをワンパラグラフ・ワントピックの法則という。

 

ちなみに、こういった大学の教養課程が教えるような基礎は馬鹿にされる傾向にあるが、もしあなたがまだ自分の専門分野の主要誌に論文を書けていないなら、そこで盛大にコケている可能性が高い。これは無数の先人たちが重要だと教えている規則なのだ。「当たり前ができてない/簡単でもわかったフリはもうやめよう」と嵐も歌っている。謙虚になろう。Step by step.

 

さて、ここから2つのことがわかる。

 

第一に、段落が短い、ということは、その段落で提示するテーゼの証明が不十分である、ということを意味する。プロはひとつのテーゼを説得するために、院生よりも多くの字数を割いているのだ。この視点からプロの書いたパラグラフをよく読めば、パラグラフとは何かが見えてくるだろう。これはまたあとで。

 

もしあなたの段落数がモデル論文と同じくらいであっても、自分の各パラグラフがPWの規則に従って書かれているか見直してみるといい。ぎゃくに長過ぎる例では、私が見たかぎり、パラグラフに複数のテーゼが混在している場合が多い。PWに則りながらも段落が長い場合、さしあたり気にしなくてもよい。

 

第二に、段落の数が多い、ということは、ひとつの論文で提示するテーゼの数が多すぎる、ということを意味する。たいてい院生は1つの論文で色々なことを言い過ぎていて、これは多くの場合、核となる中心テーゼに向けて各パラグラフをうまく組織化できていないことの現れである。

 

たとえばモデル論文の平均値が25段落だったとしよう(だいたいそれくらいなのだ)。それが示すのは、25のテーゼがあれば論文は成立するということであり、ひいては、それ以上あってはいけないということだ。つまり、それがあなたが書こうとしている形式の論文において可能なディスカッションの規模なのである。

 

良い論文を書くには、まず個々のパラグラフをうまく書けることが必要条件となる。そのために、まずはパラグラフの物理的な長さと数を把握することは、あなたのアイディアを論文という容器のなかに固定するための制限を与えてくれる。

 

また、同一著者の論文を複数読むことを提案した。これについて説明しよう。

 

聞き流してほしい持論だが、私は査読論文の業績の本数について、0本と1本の間には大きな差があり、1本と2本の間にも大きな差があり、そして2本と3本の間に差はない、と思っている。1本ある人はすくなくともベスト論文が査読基準の最低値に達したことを意味し、それを2回超えた人は、だいたい3本以上書けるのだ。

 

これが正しいかどうかはさておき、3本以上書いているひとは、ほぼ間違いなく一定のフォーマットを持っているものだ。そして、同一著者の論文を横断的に解析すると、それらの共通点と差異が浮き上がって見えてくる。ひと1人を見ても何も思わなくても、そっくりな親子を見ると一挙に顔の特徴が前景化するようなものだ。つまりパターン抽出がやりやすいのである。

 

ここで見た振れ幅は、最終的に自分で論文を書くときのアレンジの参考になる。ヒントとして、ここではイントロの着眼点の例を挙げておこう。

  

イントロは何段落あって、それぞれ何をしているか?最初の導入をどのように開始しているか?問いはいつどこで提示しているか?中心テーゼ(結論)はいつどこでどのように提示しているか?それをどのように強調して印象づけているか?どのように先行研究との差異を提示して論文の価値を自己正当化しているか?すでに先行研究をdisっているか、それとも別の方法で差異を打ち出しているか、あるいは失敗しているか?先行研究への言及はどの規模のディスクールまで届いているか?すごく近い話をしている専門家か、それとも超有名な哲学者か?イントロの時点でどんな議論を何本くらい引用しているか?どの段階でどのように論文全体の要約を提示しているか?各セクションを「以下ではまず〜つぎに〜」とベタに要約しているか、それとも、もっと抽象化した要約で攻めているか?イントロが2段落の論文と5段落の論文ではイントロの機能はどう違うか?

 

 

3.データ解析、エビデンス

 

つづいてエビデンスである。エビデンスにも色々あるが、ここでは一次資料二次資料というよくある分類を使う。たとえば、ある小説作品を論じるとしたら、その小説が一次資料、その小説について書かれた論文、その他もろもろが、二次資料である。

 

もしあなたのモデル論文に参考文献表がついているなら、まずはそれを見て、二次資料が何本あるかカウントしよう。そして、書籍は何冊か、ジャーナル論文は何本か、それらは一次資料について直接的に論じたものか、それとも別分野の議論を持ってきているのか、書籍はチャプターからの引用か、イントロ/結論からの引用か、などをチェックする。(あとで本文を読みながら、本文中でダイレクトに引用しているのは何本か、注で触れているだけのものは何本か、何本disっているか、なども数えておくと参考になる。)

 

人文系の論文における二次資料の数はおそらく、25本くらいが普通であると思う(パラグラフの数と同じだ)。もちろんアーカイヴ研究ならズラリと50本以上ついていることもあるし、5本以下などというつよつよの論文も世の中にはあるが、まずは20-30を目安にするとよい。

 

これも逆に考えると救われる面がある。つまり、原理上テーゼが25あれば論文の骨格が完成するのと同様、1本の論文を書くために読まなくてはならない資料は30-40くらいである(すべてを引用に使えるわけではない)。これは先行研究を潔癖的に精査しすぎてアウトプットに移れない院生の解毒剤になるだろう。精査は立派だが、院生には時間がない。繰り返すが、査読論文というのは規模が小さいのである。

 

これくらいはやったことがある人もいると思う。が、ここでのデータ解析の核心は、本文における一次資料と二次資料の引用を色分けして蛍光ペンでハイライトする作業だ。エビデンスを量的に可視化するのである。

 

ちなみに余談だが、私は小説についての作品論を書くことが多く、 小説が一次資料、文学研究者によって書かれた論文が二次資料で、さらに直接関係のない哲学系の議論を引用することが多いので、これを三次資料と勝手に呼んで区別している。これに興味があるひとは3色に分けてもよいだろう。

 

さて、これを行ってさきほどのデータ解析と照合すると、各段落でどのくらい第一資料/第二資料を引用すればいいのか、ということが見えてくる(意外に少なくて安心するだろう)。そして同時に、1パラグラフにおいて自分で書くセンテンスが何文くらい必要なのかもわかる(これも意外に少ない)。具体的な執筆の場面においては、テーゼが20個ほどできたとして、引用する文章をそれぞれに配分すれば、もうそれは完成から遠くないメモになる。

 

ところでパラグラフの数と引用文献の数はどちらもだいたい25くらいで、同じなのだが、これはひとつのテーゼをパラグラフで証明するために、最低1つは二次文献を引用して傍証しましょう、という教訓として受け取っておこう。

 

 

4.パラグラフを味わう

 

やっと内容に入る。が、もちろん論文から書き方を盗む作業において、冒頭からフムフムと読んだのでは意味がない。

 

ここで行うのはまず、各パラグラフを1文に要約する作業である。英語だと25wordsくらい、日本語だと50字くらいだろうか。全段落をキレイに1文に圧縮することはできなくてもかまわない。さほど字数に拘る必要はないが、長すぎてはいけない。ふつう最初と最後に重要な文がある

 

ここで抽出される文章は、各パラグラフのテーゼである。AはBである。CはDである。EはFである……。これができたら、そのテーゼを証明するためにパラグラフがどのように構築されているか、という視点から、その段落の各センテンスとその配置を深く味わってみよう。センテンスをすべて書き出して、それぞれの機能を自分の言葉で説明してみる、というのも手である。かなり多くの発見があるはずだ。

 

「味わう」などと書いたが、パラグラフを漫然と「読む」のではなく、その役割を理解して、各センテンスの、いや全単語の役割と効果に耳をすませ、それらを深く把握するという作業は、まさしく芸術作品を味わう態度に似ている。こうして徐々に、自分には書けないと思っていた査読論文のアラが見えはじめる。当然ながら、自分の文章の一語一句にたいする感度も劇的に向上することになるはずだ。

 

すでに明らかだろう、この作業は最初に述べた Presentation(文章力)と密接にかかわっている。「面白いけど文章はヘタ」という例を出したが、ぶっちゃけそんな人はまずいない。優れた書き手は全領域に満遍なく配慮しているものだ。それは全領域において優れている超人だから、というよりも、各領域が繋がっているからなのである。

 

さて、ふたたび執筆の場面から考えてみよう。論文を書く過程で、ひとはばらばらのテーゼを断片的に思いつく。この裸のテーゼたちを、接続詞を使ってなめらかに繋げ、最後まで論理が通ったとき、それはほぼ論文の完成である。AはBである。しかし、CはDである。また、EはFである。したがって、GはHである。QED。この過程で、その中間を埋めるパラグラフが必要であることが判明して、そのための勉強が挟まることもある。

 

各パラグラフ要約から出来上がったものは、全体の要約になっている。だいたい1000字くらいだろうか。私の業界では 600words 程度の英文要約を論文と一緒に提出するのだが、 25words×25¶ がちょうど 625words である。これは abstract(100-200words)ではなくて synopsis と呼ぶ。上記は、これを他人の論文から抜き出す作業だ。

 

自分の執筆過程において、この短い文章を論理的に破綻なく(Coherentに)書くことができれば、その論文は成功する可能性が高い。ちなみにその短い要約は、論文を書きはじめる前に完璧なものを作る必要はない。本文を書きながら synopsis を育てていけばよいのだ。これは執筆時の地図として、ものすごく役に立つ。

 

また、ここで抽出された長い要約(1000字)を、abstract の長さ(200字)に、さらに1文(20字)にまで圧縮してみよう。それがその論文のメイン・テーゼであり、25の小テーゼすべてを、その大テーゼを証明するために組織だてて奉仕させるのが理想である・・・が、そこまで完璧でなくても、もう査読の最低ラインなどとっくに超えているはずだ。執筆時はこのメイン・テーゼが確実に読者に伝わるように書こう。

 

日本にいたころ、アメリカ帰りの先輩に「イントロで論文の主旨と要約を述べないのはありえない、なんだこれは」とひどく叱られたことがある。これを聞いて、私は「あ?誰がそんなことやってんだ」と思ったが、そう言われて読んでみると、なるほど誰もがそのように書いているではないか。マジっすか。

 

つまり、論文を読んで内容を理解するという普段の勉強(試合観戦)は、私のような学生にとって、論文を書く作業とはかけ離れている。言い換えれば、書けないやつはちゃんと読めていない。だがさらに言い換えれば、書けるようになるとすげー読めるようになってくる。だからインプットとアウトプットは交互にやったほうがいい。

 

ここで Originality(面白さ)の問題に立ち戻りたい。

 

「面白さ」という判断基準はきわめて厄介で、すべての人文学者に憑いてまわる亡霊である。じっさい何を論じさせても抜群に面白いアイディアを思いつく天才的な論者は存在し、私は個人的にはそういった人々の面白さに(もしかすると最大の)敬意を抱いている。

 

だが Evidence を中心に見てきた本エントリの立場から言っておきたいのは、「面白さ」は第一に先行研究との差異を示して自分でデモンストレートするものだ、ということだ。論文で求められるのは、たんに面白いっぽいことを言うことではなく、先行研究を踏まえて「これは新しくて大事です」と示すことである。そもそも勉強しないと、何が凡庸で何が面白いのかなど真に判断できはしない。論文において「面白い」という評価には要注意である。

 

もうひとつ。「面白さ」というと、文章が面白い、という意味に聞こえかねないが(そしてそれは価値のあることだが)、誰にでも考えることができ、そして考えるべきなのは、上述した1文に圧縮した大テーゼが先行研究との差異において Originality を持つかどうか、という判断である。専門家にとって「面白い」とは、先行研究への介入におけるクリティカリティの度合いである。それは、勉強によって作ることができる。

 

ちなみにこの視点は、「かりにこのテーゼを証明すれば価値のあることを言ったことになるか?」という判断を1文において考えることができるので、手持ちのアイディアを論文化するかどうか決める指標になる。生産性の高い研究者の秘訣のひとつは、書く前に論文の価値を正しく予知できているので採用される文章しかそもそも書かない、という点にある。

 

 

5.おわりに

 

以上は、初級者の院生の多くが躓いていると思われる一番大きな石を除去するためのアイディア(の一部)である。これはかなり図式的にモデル化した説明であり、すべてをこのまま忠実に再現する必要はまったくない。このうちいくつか参考になりそうな要素を実践して、それがあなたの役に立てば本望である。

 

ところで、強調しておかねばならないが、論文は何本も書かないと書けるようにならないものである。最初の査読論文を通すまでに、同様の形式の文章を、どんなに少なくても5本は書いて失敗する覚悟が必要だろう(私は20本くらいかかった)。院生の期間は意外に短いので、授業の発表原稿や期末レポートを、査読誌に投稿する論文だと思ってつねにガチで書くことを推奨したい。

 

冒頭でも述べたように、もしこうした段階をクリアし、はれて査読誌に2-3本の論文が載ったとしても、それはまだ研究の第一歩にすぎない。すなわち中級者の仲間入りにすぎない。とくに1本目の査読論文は嬉しい達成だが(私は1ヶ月くらいシャカシャカベイブしていた)、それは決してゴールではなく、自分の勉強の方向性が大きくは間違っていない、ということを確かめるための──それだけの──試金石だ。

 

最終的に、論文というのは意外なほど自由である。当然、上述のフォーマットなどすぐに不必要になるだろう。業績が揃ってくると、焦りも消え、遊びの余地が生まれ、人に読まれ、書くのは楽しくなる。論文の世界はどこまで行ってもシビアでシリアスだが、そこでプレイヤーとして闘えることは、ものすごく楽しい。このゾーンに入れば、論文はもはや自己表現の場となり、技術はそのための手段となる。そこからが本番だ。

 

だが、まずはダサい型を身に着けることなくしてその自由を謳歌することは、ふつうはできない。だから、持ち前のセンスで論文を書くことができないのなら、いったん「賢さ」や「面白さ」は断念して、さっさと査読など技術でクリアしてしまえ。そこからまだまだ長い道のりがあるのだから。そして、人生は短いのだから。