Write off the grid.

阿部幸大のブログ

トップジャーナルの採用条件  日本の人文学の新時代にむけて

American Literature 誌に論文が採用された。Afro-Asian Antagonism and the Long Korean War というタイトルで、アメリカは朝鮮戦争を介して黒人とアジア人の人種対立を作り出した、と論じている。同誌はアメリカ文学研究におけるザ・トップジャーナルで、投稿された論文のほとんどを査読者にまわさず編集部でリジェクトする厳しさで知られている。査読に進むだけで Congratulations! と言われる媒体だ。

 

私はいまアメリカの大学で博士課程にいるのだが、この論文は博論の一部ではなく、留学先で書いた期末レポートを改稿したものである。私は博論に着手するまえに到達すべき実力の目標値を同誌からのアクセプトに設定していて、今回の論文は、そのトレーニングのために書いた習作の一本になる。

 

以下、採用された勢いで、今回のアクセプトに至った経緯を日記として残しておきたい。かなり私的な内容となるうえ、議論の内容や執筆の方法論について具体的なことは書けないのだが、海外誌への進出が徐々に進みつつある日本の英語文学研究コミュニティにとって、なにかしらの参考になる部分くらいはあるかもしれない。この日記で、ひとまず「海外誌」とか「トップジャーナル」といった語彙が日本の研究室での日常会話で口にされるような状況を作ることに少し貢献できればと思っている。

 

ちなみに、これを機に個人ホームページを公開したので、私の詳しいプロフィールに興味がある人はそちらをご覧いただきたい。現在執筆中の4冊の書籍プロジェクトの詳細や、今回の論文のアブストラクトも置いてある。院生・学者むけにオンラインで論文添削などの個別指導サービスも提供しているので、そちらも興味があればCONTACTから連絡されたい。

 

kodaiabe.com

 

□ □ □ □ □ □ □

 

私が米国のトップジャーナルからの出版を視野に入れるようになったのは留学の3年目からだった。

 

その時点で私は当該分野において日本国内の二大学会である日本英文学会と日本アメリカ文学会の両方から論文で新人賞を受賞しており、さらにアジアン・アメリカン研究では最良の媒体である Journal of Asian American Studies にも業績を保持していた。これでひとまず日本国内のジョブマーケット対策は済んだので(就職できるかどうかはともかく)、私の研究はようやくアメリカに100%フォーカスできる状態になった。

 

そのとき私にはいくつかの航路が考えられたが、ひとまずこっちでの就職事情を探るべく、アメリカのジョブマーケットについて調査することにした。そこで行ったのは、米国内のTOP100校において、私の研究にかかわる分野(英文科、比較文学科、アジア科など)の若いファカルティをリストアップし、彼らがどこで何年にPhDを取って、採用のタイミングでどのような業績を保持していたか、その統計を取る作業である。ちなみにCVのリテラシーは、院生が身に付けるべき最重要スキルのひとつだ。学者なら、業績リストを「読める」ようになる必要がある。

 

統計の結果、私はこのままだと自分‪がアメリカの研究大学に就職できる可能性は「ほぼ皆無」であると判断した。上述のJAASは就活に使えるランクのジャーナルだが、いかんせん出身大学が弱すぎる。こうして同時に、私に残されたやるべきことは、もはや米国の狭義の「トップジャーナル」に論文を載せることしかない、ということもわかった。それ以外の業績を量的に増やしたところで、もう私の市場価値は変わらないのだ。そのことが判明した瞬間、私はみずからに日本語での執筆を禁じ、ツイッターもやめた。兎にも角にもアメリカのアカデミアで、いちプレイヤーとして認知されなくては、なにひとつ始まらない。

 

□ □ □ □ □ □ □

 

ここでいう「トップジャーナル」に該当する媒体は、ごく数誌しかない。いくつかの理由から、私は American Literature 誌にターゲットを絞ることにした。

 

それからAL掲載論文を徹底的に解析する日々が始まった。これまでの自分の書き方では、いくらその「クオリティ」を上げたところでトップジャーナルからの採用はありえないとわかっていたし、あるレベルの文章を自分で書けないということはそれを読めてもいないということだと私は考えるので、もう過去の書法はおろか読み方もすべて捨て、まったく新しい営為をこれから学ぶのだという気持ちで、厳選したいくつかの論文を虚心坦懐にトレースした。英語に "Leave no stone unturned" という表現があるが、まさしく "Leave no sentence unturned" という感じで、ふだん何気なく読んでいるセンテンスの裏側に自分が見えていない何かが隠されているのではないかと疑いながら、1本の短い論文を「読む」のに何日もかけ、その観察からデータに変換できるものすべてを数値化し、言語化し、基準を作っていった。

 

そして自分の書く文章がその基準から外れているとき、それは自分が「間違っている」のだ、と考えるようにした。ここで「自分の感覚」などを信じると、けっきょく以前と似たような文章を書いてしまう。だからデータを取って、それに脳死状態で従うのだ。これを続けているうちに、徐々にトップレベルの論文の見え方が変わってくるのがわかり、私は自分の読解のピントが致命的にズレていたことに気づきはじめた。1本を深く読むことは100本を読むよりも大きな効果を生むことがある。その深みで得られた高解像度の理解力は、以後どんな文章を読むときにも発揮される。これを私は昔から「深い一点を作る」と呼んでいる。あらゆる分野に応用できる勉強方法だ。

 

かくして私は「トップジャーナルの採用条件」らしき一群のルールをまとめた。私のいう狭義のトップジャーナルには、「良いのが書けたので出してみました」的なノリで出してもまず採用はありえない。そこには極めて特殊な暗黙のコードが存在しており、それを満たさないかぎりは相手にもされないのである。そして私は、これまでの思考回路やスタイルに流されず、この「条件」の範囲内にプロジェクトを立案し、そこからはみ出さないように慎重にセンテンスを書き継いでいった。

 

その執筆は、これまで書いた論文のじつに約10倍の期間を要した。それはきわめてスリリングな作業だった。これまでの自分の文章とは完全に異質であることが、1000語も書かないうちに手にとるようにわかったからだ‪──‬そう、それはまさしく American Literature 誌に載っている論文のようだった。イントロを書き終えないうちに、私はこれが特大のブレイクスルーであることを確信していた。それはアメリカでの孤独な留学生活で経験した、二度目の凄まじい高揚感だった。

 

そして論文はぶじ採用された。

 

□ □ □ □ □ □ □

 

私は論文が書けるようになるルートはふたつあると思っている。ひとつは自分の人生とかかわるような問いやテーマを深く深く追求し、その先に論文という表現形態が開けてくるようなパターン。もうひとつは、私はこっちなのだが、論文執筆を仕事として捉え、職人のように研究の諸技術を磨いてゆくパターン。どちらが良い悪いではないが、前者は専門家タイプで、後者は何でも屋タイプになりやすい。私はいちおうアメリカの戦争を専門としてはいるが、朝鮮戦争論文をトップジャーナルに載せたとはいえ、朝鮮戦争について世界トップクラスの知識を持っているわけではまったくない。私はただ、優れた論文を書くために必要十分な参照作業を遂行できるのだ。それは非常に抽象的な技能であって、いわば特定のスポーツをやらずに運動神経そのものを鍛えたようなものである。私は意識的に文学以外の研究も参照しながらモデルを構築したので、これは人文学という学問領域のかなり広範囲にわたって適用可能な技術だと思われる。直近の業績であるメディア研究の一流誌 Discourse からのアクセプトが、その証左の一端である。

 

人文学で研究者としての実力を伸ばすために何よりも重要だと私が思うのは、「自分は読めている」という自負をいかにラディカルに疑い続けられるかである。ある議論を自分が本当に読めているかどうか、それはあなたの論文が同等のレベルの媒体に相手にしてもらえるかどうかで測定できる──というか、それ以外に自分の理解力を客観的に測定する方法を私は思いつかない。あなたの執筆力の限界は、あなたの読解力の限界と同じなのである。自分の実力は、書くことではじめて明らかになる。だから査読が重要なのだ。

 

じっさい、あなたは世界トップクラスとされる議論を読んで「なにがそんなすごいの?」とか思った経験がないだろうか。もしあるなら、それは一種のチャンスである。そのとき、世界最先端の研究が実際に大したことないか、あなたがうまく読めていないか、そのいずれかなのだ。はたしてどっちなのか? もういちど言おう、ひとはどんな論文でも、自分に読める範囲で読めてしまう。もうすこし核心に迫れば、ひとは自分が書くときに動員できる(つまり十全にインストールされている)思考のフレームワークしか、読むときにも使うことができない。だから読解には盲点がある。あるかもしれないということを恐れなくてはならないのだ。

 

f:id:jeffrey-kd:20211019122444j:plain

「それがココの最低条件…」
冨樫義博HUNTER×HUNTER』第6巻

 

 

□ □ □ □ □ □ □

 

今回の手応えから判断して、教育カリキュラムさえ整えることができれば、将来的に日本の人文学研究者のもっとも優秀な層をこのレベルに引き上げることは可能であるように思われる。いま日本の英語文学研究はアメリカに30年ほど遅れているが、それはもちろん日本人がみんなバカだからそうなったのではない。導入がうまくいっていないだけである。いったん雰囲気と方法論さえ浸透してしまえば、「博論から1章は米国のトップジャーナルに採用されて、一流UPから書籍化がデフォ」という未来の想像も不可能ではない。そのためにまずは、日本人の院生の最高到達点は世界トップジャーナルへの掲載である、ということをコミュニティの想像力の地平内に呼び込む必要がある。この文章をここまで読んでくれた読者は、少なくともそのことは覚えて帰ってほしい。

 

いやそもそもアメリカなんてどうでもええわ、と思うなら、それはそれで構わないと私は思う。そういう人がいてもいい。おそらくいま、私の周辺のディシプリンは保守と革新の大きな岐路に差し掛かっていて、これは個々人がどっちに行きたいかという問題だ。私は今後、これまで編み出してきたトレーニング方法と執筆テクニックを紹介するというかたちで、日本の人文学にひとつのムーヴメントを引き起こしたいと目論んでいる。あなたは世界から取り残された日本人で満足か? どうせ研究者としての人生を歩むんだったら、世界の最先端にリアルに食い込んでみたいと思わねーか?

 

最後にダメ押しで挑発しておこう。過去数年をふりかえって、あなたは自分の学者としての実力を根本から見直すよう要求するような鋭い批判にさらされて手が震えるような経験をした記憶があるだろうか。あなたがまだ修行中の院生ならあるかもしれない。だが、立場を得るにつれ、年を取るにつれ、成果を積むにつれ、自分をディスってくれる貴重な声は減ってゆく。それでご満悦なら‪‬構わないが、もしプロの研究者としてそんな学芸会じみた状況を軽蔑できるプライドがあるのなら、それを打破するための第一歩を踏み出すのは簡単である。海外のトップジャーナルの世界に、いますぐ無課金プレイヤーとして飛び込めばいいのだ。そこで門前払いを食らう屈辱をきちんと味わうところから、日本の人文学の新時代は始まる。

 

さあ、つぎはあなたの番だ。