『少年ジャンプ』における成長の3つのパターン
少年マンガのストーリーを牽引する最大の動力、それは 成長 である。
このほど、大好きな『ブルーピリオド』についての論考を書いたところなのだが、この芸大受験マンガは、ある意味で成長そのものについて思弁するマンガ、「メタ成長マンガ」とでも呼べそうなマンガで、書きながらマンガと成長について色々と考えることになった。しかしその部分が論考に収まらなかったので、独立した記事を用意した次第である。
ちなみに、その『ブルーピリオド』論はここで読める。
以下の文章は「成長とは何か」といった抽象的な論考ではなくて、ごくシンプルに、『週刊少年ジャンプ』に連載された代表的なマンガにおける主人公たちの成長を3つのパターンに分ける、という、きわめて形式主義的な内容である。
(ちなみに少年マンガと「成長」の関係については、有料で申し訳ないが、友人の足立伊織が「ぼくたちの成長──少年マンガの「少年」とその時間性」という論考を書いているので、興味があれば)。
もちろん以下は網羅的な議論ではなく、ラフな分類にすぎないし、『ジャンプ』をネタに選んだのも、たんにわたしが昔から『ジャンプ』を読んできたからにすぎない。
わたしはマンガに詳しいわけではまったくないので、「え?あの作品は?」とか、「この作品はどこにも当てはまらない」とか、「そんなんジャンプだけでしょ」とか、マンガ通の人々は不満に思うかもしれない。
が、まさしく本エントリの狙いはだいたいそのあたりのリアクションを引き出すことで、ざっくりした見取り図を提示して、その先の、より包括的で歴史的で正確な議論のための叩き台になればよいと思っている。
① 100→∞ パターン
これが『ジャンプ』の王道である。
『ドラゴンボール』の悟空、『ONE PIECE』のルフィ、『HUNTER✕HUNTER』のゴン、『キャプテン翼』の翼、みんなはじめから超人的・天才的な才能をみせ、そこからさらに際限なく成長してゆく主人公たちだ。
『ドラゴンボール』におけるスカウター数値のインフレが象徴しているように、このタイプの成長には際限がない(ボンッ!)。天才から始まって、永久に右肩上がり、ということで、わたしはこれを「100→∞」パターンと呼んでいる。
この系譜の主人公は、だいたい天真爛漫・猪突猛進、死にかけても肉を食うだけで全回復するやべぇヤツらで、誰にも止められないパワーと、その傍若無人ぶりにもかかわらず、周囲の人を惹きつける魅力を持っている。「うるせェ!!行こう!!」
また、彼らを引き立たせるために、ベジータのような準・天才キャラが用意されるケースが多い。主人公の自意識のなさと対照的に、彼らは「天才だと思ってたら上には上がいた」的な挫折と屈折を表明する。「がんばれカカロット…おまえがナンバーワンだ!!」
物語の終盤、インフレの結果として、惑星がバンバン破壊されるとか、不条理な世界観に突入することも多い。『テニスの王子様』は、宇宙でテニスをしても仕方ないので、インフレの余剰エネルギーがギャグめいた奇想として昇華した例だとみなすことができる。その意味でこれは『キャプテン翼』の正嫡だといえるだろう。
② 0→100パターン
2番めに重要なのがこのパターンで、『NARUTO』のナルト、『僕のヒーローアカデミア』のデク、『ワールドトリガー』のオサム、『ヒカルの碁』のヒカルなどが、ここに属する。他にも、『マキバオー』、『アイシールド21』、『ダイの大冒険』などが挙げられる。①のメジャー感には劣るが、こちらも名作ばかりだ。
彼らも右肩上がりにぐいぐいと成長してゆくが、第一にスタート時点で「落ちこぼれ」であることが強調される点、第二に、①の無限の成長とちがって、こちらでは「火影」になるとか、到達可能っぽいゴールが可視化されている場合が多い点が異なる。というわけでこれは「0→100」パターンと呼ぶのがいいだろう。いいってばよ。
悟空とベジータの関係をちょうど反転させたようなかたちで、この系譜では、影のあるメランコリックな「天才」が、「落ちこぼれ」の主人公とセットになる場合が多い。上で挙げた例だと、サスケ、カッちゃん、遊真、アキラである。ただし彼らはいずれ、序盤は眼中になかった存在であるはずの主人公に追い越されることになるだろう。「俺のサイドエフェクトがそう言ってる。」
ここに分類すると面白いのは『スラムダンク』なのだが、これはいささか特殊なので、最後に詳しく論じる。「秘密兵器は温存しとかないと。」
③ 100→100パターン
このパターンは、主人公がはじめから最強で、かつ、「少年」と呼ぶにはいささか高齢で、あまり成長してゆかないという顕著な特徴をもっている。『北斗の拳』、『シティーハンター』、『忍空』、『ぬ~べ~』、『るろうに剣心』、『トリコ』などがこの系譜に属する。
これらのマンガの主人公は、いちおう成長するのだが、その加速度は①②とは比べ物にならない。最初から最強で、そんなに成長しない、ということで、「100→100」である。青年誌のマンガはこのタイプの主人公が多く、ひるがえって、いかに少年マンガが成長パワーに依存して描かれているかがわかるだろう。
このパターンでは、「かつての乱世で最強と謳われ畏れられた主人公が、当時の暴力的な自分を封じ、隠居生活に入っているハズが、とある事情で昔の力の解禁を余儀なくされる」といった設定が多い。しばしば物語の終盤では彼らが暴力を封印した理由であるところのトラウマ的な過去が明かされ、陰鬱な雰囲気が漂う。『銀魂』ではこれがギャグ化している。
サブキャラについては、主人公をメンターとする年少者・弱者が定番で(ケーン!)、しばしば物語の終わりのエピローグにおいて、彼らが次世代を担うことが匂わされる。ちなみに『DEATH NOTE』のライトは③に分類できるが、人物相関図には、L、ミサ、リュークという3者が絡んでおり、特殊な例である。
『ネウロ』もこの系譜だが、ここで『暗殺教室』を考えると面白い。渚とカルマは②のパターンにぴったり当てはまるが、しかし、このマンガにおいて殺せんせーは完全に主人公級のプレゼンスを持っている。したがって『暗殺教室』は②と③のコンビネーションで、こうして見ると、全然似ていないマンガだが、意外に『ヒロアカ』と『ぬ~べ~』の中間あたりの構造を持っていることがわかる。
④ 『スラムダンク』という例外
というわけで3つに分類してみた。
もちろんこの図式には限界があって、たとえば『幽遊白書』『BLEACH』『鬼滅の刃』あたりはうまく分類しにくい。主人公の才能や意思にかかわらず、暴力に巻き込まれて(誰かを助けるために)異能系の修行をせざるを得なくなる、みたいな流れの作品群で、終盤で血統の重要性が浮上してくる点も共通している。
これに頑張って名前をつけてもいいのだが、成長という観点での分類ではあまりうまく行かなそうなので今回はやめておく。えっ、諦めたらそこで試合終了……?
さて、最後に、②で触れた『スラムダンク』の例外性について簡単に論じたい。
これは驚くべきマンガである。けっしてバスケの天才ではない桜木花道を主人公に据えておきながら、彼はあんまり上手くならないのだ。いや、もちろん成長してゆくのだが、なみいる『ジャンプ』の主人公たちの天才ぶり・成長ぶりに比べれば、花道の成長などほとんど「0→0」だと言っていい。
『ジャンプ』という少年誌で、しかもスポーツという題材でのこのリアリズムは、きわめてリスキーな邪道である。あまりにも地味だからだ。というわけで、このマンガはほとんど反・成長物語だと言える──いや、成長が『ジャンプ』の柱なのだとすれば、これはもはや反『ジャンプ』マンガだと言ってもいい。
このアンチ精神は、『スラムダンク』というタイトルと内容の齟齬にも現れている。というのも、物語のクライマックスでもっとも重要な役割を果たすのは、豪快なスラムダンクではなく、「左手はそえるだけ」の地味なジャンプシュートなのだから。『ジャンプ』に連載されている『スラムダンク』という名のバスケ漫画のクライマックスが「スラムダンク」ではないなどと、誰が予想できただろう。
ここでさらに面白いのは、花道の決めゼリフが「天才ですから!」だという事実である。
バスケの天才ではない彼による、この無根拠であるはずのセリフが滑稽に響かないところに、『スラムダンク』の凄さと謎がある。なぜ天才ではない花道の「天才ですから」は感動的なのか?
それはおそらく、花道という凡才の主人公によって王道を打ち立ててしまった『スラムダンク』というマンガの天才性を花道が代弁しているからなのではないだろうか。
わたしたちが花道の「天才ですから」に聞き取るのは、ジャンプ的な天才性にたいする『スラムダンク』というマンガの挑戦であり、そして、桜木花道という「庶民的」な天才による、その勝利宣言なのだ。