Write off the grid.

阿部幸大のブログ

古井義昭『誘惑する他者:メルヴィル文学の倫理』の取扱説明書

 

 

古井義昭『誘惑する他者:メルヴィル文学の倫理』が法政大学出版局から刊行された。本エントリは、本書のおそらく最速にして、今後だれも書かないであろうタイプの、奇怪な1万字の書評である。

 

 

Amazon.co.jp 古井義昭『誘惑する他者:メルヴィル文学の倫理』

 

いそいで最初に言っておかなければならない——本書はハーマン・メルヴィルという19世紀のアメリカの小説家についての専門書なのだが、以下の文章は、メルヴィルにも、アメリカにも、文学研究にも関心がない読者にむけて書かれている。念頭にあるのは人文系の院生や研究者だが、もしかすると一般読者にも楽しんでもらえるかもしれない。

 

そもそもわたしはメルヴィルという作家について、おそらくそのへんの海外文学好きの読書家たちよりも無知である。以下は、人文系の論文の書き方を学ぶための参考書として本書を活用するための取扱説明書だ。

 

本稿が注目するのは、本書の内容よりも、形式である。すぐれた論文から論文の書き方を学ぶにあたっては、ヘタに内容について詳しい論文は使わないほうがよい。なぜなら内容に気を取られてしまい、形式への注意が疎かになるからだ。むしろ内容に専門的な興味がない論文こそ、形式の抽出にはむいている。

 

もしあなたが、わたしをアカデミック・ライティングの教科書の執筆者として認知している読者なら、本書『誘惑する他者』は間違いなく現時点で手に入れられる最高の和書なので、あなたがどんな分野にコミットしていようとも、間違いなく役立つことを保証する‪。これよりも優れた和書が出ることは、すくなくとも今後10年はないだろう。

 

わたしは何人もの優れた書き手をモデルとしてアカデミック・ライティングの方法論を構築してきたが、そのなかでも古井は、トップスリーに入る先達である。以下でとりあげる論文は、どれも一時期わたしが印刷してつねに持ち歩き、ボロボロになるまで解析したものだ。

 

わたしも多産な古井に劣らぬペースで、古井に劣らぬ論文を書いてはきた。だが執筆の方法論を学ぶためには、わたしのガチャガチャした素行の悪い論文たちよりも、古井の端正で、堅実で、模範的な論文のほうが向いている。じっさいわたしは論文指導にさいして、つねに自分の論文ではなく古井の論文を読むよう薦めてきたし、今後もそうするつもりだ。

 

古井の本は、全10章のうちほとんどすべてが海外誌から出版された査読論文である。このような和書は、おそらく同分野において、それに近い前例すらないだろう。この意味でも古井のメルヴィル論群が日本語訳されたことには、きわめて大きな教育的意義がある。本稿では、とくに国内の全国誌レベルから海外誌へとステップアップする段階にフォーカスして解説したいと思っている。

 

わたしはすでに、査読論本をまったく出していないか、あるいは1本だけ書いたのちに停滞しているような初学者にむけて、本ブログで勉強法を紹介した(「アートとしての論文」)。各読者のレベルにあわせて、本エントリをこれと併せて読んでもらえるとよいと思う。上エントリでは「多産な若手の論文を縦断的に読むとよい」と書いているが、以下はその実践例のひとつである。

 

ちなみに古井はわたしの東大の大学院の先輩にあたるが、彼と一緒に教室で学んだことは一度もなく、むろん教わったこともない。勝手に私淑し、その論文を自分の執筆技法の構築のために使わせてもらってきただけである。

 

◻︎ ◻︎ ◻︎ ◻︎ ◻︎ ◻︎ ◻︎

 

『誘惑する他者』は、古井が2010年から2022年まで、じつに12年間にわたってメルヴィルについて書き綴ってきた査読論文を集めたものである。チャプターの配列は出版年度順ではなく、テーマごとに区切って並べ替えている。

 

われわれの目的はここから書き方を学ぶことであるわけだが、わたしはよく論文執筆の指導で、ベテランの研究者が書いた最近の論文は参考にしないよう教えている。わりあいキャリアの初期に書かれたぎこちない論文のほうが、論文のルールをリジッドに守っており、アクロバティックな要素が少なく、参考にしやすいのだ。

 

というわけで論文と掲載媒体を出版順に並べ替えると、以下のようになる。

 

『ピエール』論、『アメリカ文学研究』英文号

『信用詐欺師』論、Leviathan

『ベニト・セレノ』論、Canadian Review of American Studies

『ジョン・マー』論、Leviathan

バートルビー」論、Journal of American Studies

『白鯨』論、Criticism

「エンカンタダス」論、Leviathan

「ビリー・バッド」論、Literary Imagination

イズラエル・ポッター』論、Texas Studies in Literature and Language

タイピー』論、『アメリカ研究』英文号

 

ここから論文の書き方を抽出するにあたって、太字にした3本を使いたい。いちばん最初の『ピエール』論、2本目の『信用詐欺師』論、そして「バートルビー」論である。最初の2本は古井のresearchmapで公開されていて、英語の原文も読むことができる。

 

すこし説明しよう。古井の論文は、およそ3種類に分けられる。第一に国内誌の論文。第二に、海外の中堅誌か、その少し下の媒体に載せた論文。そして第三に、トップ層のジャーナルである Journal of Amerncan Studies の掲載論文である。

 

(1)最初と最後が日本国内の媒体になっているが、『ピエール』論と『タイピー』論には12年のひらきがあり、前者は「あとがき」に説明があるように古井の修士論文、後者は、のちに10本以上の論文を書いて博論も書籍化したあとの古井の論文であり、これらはまったくクオリティが異なっている。初学者が参考にすべきは、完成度の高い後者ではなく、前者である。

 

(2)国内誌論文と「バートルビー」論を除いた7本はほとんど中堅誌か、その少し下の、いわゆる 3rd tier journal に掲載されている。古井は修論から国内誌に『ピエール』論を載せたあと、留学してわりと早い段階でメルヴィルの専門誌である Leviathan 誌に『信用詐欺師』論を掲載している(タイミング的にこれは期末レポートだ)。本エントリでは、ここでの国内誌から海外誌への飛躍を捉えたいと思っている。

 

(3)「バートルビー」論が掲載された JAS という媒体はアメリカ研究では世界で2番手のジャーナルで(トップは American Quarterly)、本書のなかで浮いている(ただしこれはイギリスの媒体で、米国とは評価基準が異なる)。中堅誌に大量に書いている古井の論文群のなかで本論を読むと、その少し上を目指すためのヒントが詰まっていることが浮き彫りになる。じっさいわたしは本論が古井のベスト論文だと思っており、その理由も、あとで述べる。

 

ざっとこんな感じである。順に読んでゆこう。

 

◻︎ ◻︎ ◻︎ ◻︎ ◻︎ ◻︎ ◻︎

 

論文からフォーマットを抽出するさい、もっとも注意して読むべきはイントロダクションである。とくに重要なのは、段落数と、各段落の機能だ。

 

古井論文のイントロダクションはおおむね2から4段落からなっている。例外は比較的あたらしい『白鯨』論と「ビリー・バッド」論で、前者はじつに8段落もある。メルヴィルといえば『白鯨』であり、本書の第1章も『白鯨』論になっているので、ここで書いておくが、『白鯨』論は本書のなかでもっとも論文のフォーマット抽出には使いにくい論文である。以下を読んでから『白鯨』論のイントロを読めば、それがいかに初学者には真似しにくい論文であるかわかるだろう(それもぜひやってみてほしい)。

 

さて、古井はだいたい2から4パラでイントロを構築している。イントロダクションにはその論文がどういう論文なのかをすべて書かなくてはならないので、イントロを読めば、その論文の規模をほぼ正確に判断することができる(じっさいわたしは査読の現場ではイントロを全部読まないうちにリジェクトすることが多々ある)。

 

さて、『ピエール』論のイントロは3パラである。それぞれのパラグラフの内容を要約してみよう。

 

1)『ピエール』の主題として、「血縁」と「書くこと」が挙げられる。

2)「血縁」と「書くこと」は先行研究で別々に論じられてきたが、併せて論じる必要がある。そのために「手紙」というテーマを導入したい。

3)「ピエールは小説を書くことで独立した自己を獲得できるのか」を問い、ピエールが他者としての自己に向き合うことを拒否するキャラクターであることを示す。

 

各パラグラフの機能を言語化してみよう。

 

1パラは『ピエール』から「血縁」と「書くこと」というテーマを抽出している。このように、ある対象におけるモチーフに着目するというのは文化研究では初歩中の初歩であり、初学者がまず第一に書けるようになるべきは、こうした「A(対象)におけるB(着眼点)について」という形態の論文だ。学部生も指導なしでここまではできるが、古井はそれを2つ挙げている。

 

2パラは重要である。ここは元の英語論文とけっこう違っているのだが、先行研究にごく短く言及することで、先行研究が不十分であると批判し(血縁書くことは併せて論じられてこなかった)、なおかつこの論文のアカデミックな価値がどこにあるのか明言している(併せて論じる)ことを理解してほしい。「先行研究はAに着目してこなかった」という批判は、初学者にもすぐに実践可能な、もっとも単純なタイプの、アカデミックな価値のつくりかたである。とくに学振DCでは、ほとんど100%の学生がこのタイプの説明で書類を書いてくる。

 

3パラでは「自己」という新しいトピックが導入されるが、1、2パラとの接続が不明瞭である。もし修士課程の古井をわたしが指導するのなら、血縁と手紙のモチーフがいかに自己や他者といったテーマと接続されるのかを(できれば自己の問題だからこそ血縁と手紙はあわせて論じられなくてはならないのだという方向で)イントロで言語化するように伝えるだろう。このパラグラフは、2パラで出てきた本論のアカデミックな価値(先行研究の批判)とは関係がなく、ようは「自己の話もします」と言えているにすぎない。また、じつはここに「ピエールは他者としての自己に向き合うことを拒否する」という本論におけるもっとも重要な主張内容が含まれており、書き手はここを読者に引用させなくてはならないのだが、このイントロは、どんな読者にもこの箇所をハイライトさせられるように書けていない。たぶんあなたがこの論文を引用するなら、血縁か手紙について書いてしまうだろう。だがそれはテーマであって主張ではない。

 

というわけで、本論のイントロがやっていることは、①作品を選び、②そこに現れるテーマを抽出し、③先行研究の批判によって論の価値をつくる、ということまでである。きわめてベーシックで、真似しやすい、初学者にとってのお手本のような論だ。以下でより高級な論文の書き方に触れるが、1、2本目の査読論文は、このくらいのミニマムな規模で書くべきである。

 

ここからテクニックとして学べることは、「あるテーマを抽出して、先行研究が不十分だと言う」まではほとんどの修士学生が指導なしでもやろうとすることなのだが、古井の場合は2つのモチーフを抽出して、それらは「併せて論じないとダメなのだ」という論法で批判を展開していることだ。これは誰にでもすぐに真似できる手法であるように思われるし、論じたいテーマが複数ある場合にひろく応用できる技術であるだろう。

 

もし興味があるひとは、このあとのパラグラフもこの調子で解析してみるとよい。各パラグラフの機能をこのように分析する、わたしが「パラグラフ解析」と読んでいるこの勉強法は、論文執筆のトレーニングとしてわたしの知るかぎり一番効果が高いものである

 

◻︎ ◻︎ ◻︎ ◻︎ ◻︎ ◻︎ ◻︎

 

つづいて『ピエール』論と比較するかたちで、古井の2本目の論文である『信用詐欺師』論のイントロを解析してみよう。これもやはり3パラからなっている。

 

1)『信用詐欺師』の主題として障害を挙げたうえで、障害学(disability studies)を用いた近年のメルヴィル研究に言及。

2)19世紀半ばのアメリカにおける身体障害という歴史的背景に『信用詐欺師』を位置付け、前段落で言及したメルヴィル研究の内容を簡単に紹介。

3)さらに個別の研究に踏み込み、本論はそのどれとも異なる点(障害者の内面)に着目する点が新しいと述べることで、本論のアカデミックな価値がどこにあるのか明言。

 

ふたたび詳しく言語化してみよう。

 

1パラは、『ピエール』論と同じく、まずは作品+テーマを設定している(『信用詐欺師』と障害)。これが『ピエール』論よりもすこしだけレベルが高いのは、それがたんなるモチーフの指摘(血縁と手紙)ではなく、障害学というアカデミックな言説の枠組みでそれを捉えるという点まで言えていることだ。『ピエール』から血縁と手紙というモチーフを抽出することは素人でもできるが、『信用詐欺師』の障害というモチーフを障害学の枠組みで読むことは専門的な知識がないとできない操作である。このレベルで論が成功すれば、もはや日本の学会誌ではトップクラスだ。

 

2パラは、1パラで導入した障害学という超時代的なテーマを、作品が書かれた当時の歴史的背景に位置付けることで、本論が理論論文ではなく歴史論文であることを宣言している。さらにサミュエルズという、おそらく同トピックの最重要先行研究を直接引用しているが、この引用で明らかになるのは、公共空間と障害(者)という本論が扱おうとしているトピックが「重要である」という点までである。つまりこの時点では、「いろいろなひとが重要だと言っているこのトピックについて本論も語ります」と言えているにすぎない。

 

3パラは、かなり長いうえにゴテゴテしており、邪推するに、はじめて海外誌の査読者からの厳しいコメントに触れ、それに応えようと院生の古井が頑張った結果なのではないか。まぁそれはいいとして、ここではシュワイクという(おそらくメルヴィル論者ではなく)障害学についての議論でのよく知られた枠組み(超可視性と不可視性)、ならびに先行するメルヴィル論における「障害者の内面と外見」という議論を引いて、本論はそのいずれからも距離を取る、としている。

 

『ピエール』論との違いは、ここですでに先行研究を具体的に何本も引用し、それらとの差異をイントロで示し終えていることだ。『ピエール』論では血縁と手紙というテーマが併せて論じられてこなかったことを批判していたが、ここでは先行研究が依拠あるいは提出する具体的な枠組みをダイレクトに批判している。そのうえで、「障害者の身体という外的指標ではなく、障害者と見なされる者の隠された内面」が重要なのだという主張を展開できている。

 

これがなぜ論文として『ピエール』論よりもアカデミックな価値が大きいのか考えてみよう。これは、メルヴィルなどに興味がない読者にこそ、むしろ理解しやすいものである。

 

『ピエール』論のイントロから、あなたはなにを学んだだろうか。ちょっと考えてみてほしい。おそらく、メルヴィルの『ピエール』という一生読まないであろう作品において血縁と手紙というテーマが現れ、それらが密接に結びついている、ということぐらいであろう。メルヴィルあるいは古井に興味があるか、あるいはまかり間違って『ピエール』を読むことがないかぎり、あなたにはこの論文を最後まで読むモチベーションはないし、そこから持ち帰るアイディアも、ほとんどない。

 

それに対して『信用詐欺師』論のイントロでは、障害学や19世紀のアメリカにおける障害者の現れ方とそれについての法律なども学べるのだが、重要なのはそこではなく、古井の論が、「障害者が公共空間でどう見られたかではなく、障害者自身の内面を見なくてはならない」という観点を提示していることだ。この発想は、『信用詐欺師』を一生読まないあなたやわたしも、どこか別の機会で障害一般あるいはフィクションにおける障害表象について考えるときに、応用できる可能性がある

 

つまり大局的にみたとき、学問的な価値とは、たとえば文学研究なら作品をどのくらいエレガントに面白く読むかなどというところにはなく、あくまでもポテンシャルとして、その論文をどのくらいの人が読みえ、どのくらいの人がみずからの議論に応用しうるかにある。それはつまり、参照可能性の問題だ。

 

ここに海外誌から出すために必要不可欠なポイントがある。論述が精緻であるなどということは海外誌においては大前提であり、ジャーナルがその論文を出版したいと思うかどうかは、引用されるかどうかにかかっている。教育機関である日本の学会誌では査読者が投稿者の論のクオリティを判断するという上下関係があり、それゆえに論のクオリティさえよければ採用してもらえるのだが(これはこれで存在意義がある)、研究の場である海外誌では筆者と査読者は対等であり、こちらも相手と同等のプロフェッショナルであることが求められる。そして彼らがプロ‪の研究者に当然のごとく要求するのは、アカデミックな世界への知的貢献であり、それは、被引用可能性でしか測定されることがない。

 

別の言い方をすれば、古井の論文はわれわれに『信用詐欺師』をどう読むかだけでなく、障害について、そして障害という着眼点でなんらかの対象を分析するということについて、なにかを教えてくれる論文なのである。まだまだ本論においてはその方法論は未熟だが、古井の論文をこの視点で時系列順に追ってゆくと、そこの技術がどんどん洗練されてゆくさまを目撃することができる。本エントリで分析しない論文についても、各自で見てもらえるとよい。

 

◻︎ ◻︎ ◻︎ ◻︎ ◻︎ ◻︎ ◻︎

 

この点でもっとも優れているのが「バートルビー」論だ。このイントロは4パラからなっている。

 

1)ほとんど何も喋らないバートルビーというキャラクターの内面(なに考えてるか)を読者は知りたいと感じる、という導入。

2)この「他者の内面を覗きたい」という欲望には暴力的な側面があるとしたうえで、情動理論(affect theory)という学問的な言説に位置づける。

3)文学研究の領域においてさかんに論じられ発展してきた情動理論の歴史を整理し、 emotion とは異なる「言語化できない領域」として affect が論じられてきたのであれば、それを言語芸術である文学に応用することなどそもそも可能なのかと問う。

4)「バートルビー」において、この他者の内面(情動)は、描写されるのではなく暗示されるにとどめられている、として、そこに書き手であるメルヴィルの倫理があるのだと結論する。

 

1パラはやはり「バートルビー」と内面、すなわち作品+テーマという導入である。

 

2パラは、『信用詐欺師』論を読んだあとだと簡単にわかるように、素人読者でも抽出しうるテーマ(血縁、手紙、障害、感情)を、近年のアカデミックな言説である情動理論へと接続している。ちなみに『信用詐欺師』論ではここまで1パラで終わっていたので、3から4にパラグラフが増えたことに本質的な意味はないことがわかる。

 

3パラが重要である。ここでは、アフェクト理論という大規模な言説体系に対して、そもそも文学研究でアフェクト理論って矛盾してないか?という根本的な批判を提出している。これは歴史論文ではなく理論論文であり、この論文が提出しうる理論的介入の潜在的な最大値は、そもそも文学研究にアフェクト理論は適用不可能であるという指摘である。ここでは個別のメルヴィル論を批判しているわけではなく、文学研究におけるアフェクト理論の応用をすべてひっくり返すポテンシャルを秘めており、その規模において、他の論文とは完全に一線を画している。

 

しかしそんな批判が可能なのか。しかも「バートルビー」を情動理論で読もうとする本論で?4パラでは、「バートルビー」は内面を知りたいという欲望をかきたてはするものの、その欲望の暴力性に自覚的な作品であり、バートルビーの内面を完全に言語化するようなことはしない、そしてそこにメルヴィルという作家の倫理があるのだと結論している。本論の結論はアフェクト理論についてではなく、メルヴィルについての結論である。3パラで垣間見える貢献度が「潜在的な最大値」であると書いたのは、そういうことだ。というわけで、本論がタイトル「誘惑する他者」と「メルヴィル文学の倫理」をもっともダイレクトに反映する、実質的なタイトル・トラックだといえる。

 

『信用詐欺師』イントロの解説を読んだあとであれば、このイントロがいかに巨大な被引用可能性を持っているかわかるはずだ。affect とは感情のうち言語化できない領域を指すはずなのに、それを言語芸術を分析対象とする学問たる文学研究に無批判に応用してしまってよいのだろうかという批判は、およそ感情というものを描かない物語がおそらくこの世に存在しない以上、きわめて広範な応用可能性を秘めている。それは「バートルビー」の読者やメルヴィリアンどころか、文学研究者やアフェクト理論の専門家、そしてあらゆる物語の鑑賞者が参照しうる着眼点であり、さらなる思考を刺激する。

 

これを聞いただけで、たぶんあなたも、なんらかの作品なり経験なりを思い浮かべ、あるいはフィクション作品と感情という問題について何かしら考える刺激を受けることだろう。それがつまり、応用可能性、そして被引用可能性ということであり、つまるところ、いい論文だということなのである。

 

◻︎ ◻︎ ◻︎ ◻︎ ◻︎ ◻︎ ◻︎

 

というわけで以上、パラグラフ解析の実践と、論文評価の着眼点をデモンストレートした。こうした視点で古井の他の論文、まったく別の著者の論文、さらには自分で書いた過去の論文などを読んで評価してみてほしい。論文というものの見え方がどんどん変わっていくはずだ。

 

さいごに古井の「バートルビー」論を批判してみよう。これをもっとデカい論文に鍛えるには、どんな可能性が考えられるのだろうか。

 

古井論文の構造は、アフェクト理論の根本的な矛盾を指摘したうえで、「しかしメルヴィルはこのように倫理的だったので偉いです」という結論に着地するというものだ。論の後半では、「バートルビー」以外のメルヴィル作品にも同様の倫理が見られるというふうに展開している。つまりここでアフェクト理論についてのメタクリティカルな思考は、最終的にメルヴィル読解に奉仕している。すなわち、これはメルヴィル論文であって、アフェクト理論論文にはなっていない。当然だが、メルヴィルについて新しいことを言うよりも、アフェクトについて新しいことを言えたほうが論文の価値は大きい。

 

バートルビー」論のポテンシャルは、アフェクト理論の文学研究への応用可能性の再考にあった。そのポテンシャルを最大限に引き出すには、むしろメルヴィルをひとつの事例へと押し下げ、小説と感情の問題を中心に論をまわすことができればよい。

 

どうすればよいか。ヒントとなりそうな一案を出しておこう。

 

たとえば、作品分析パートで、3人の別の作家を扱うとどうなるか想定してみよう。そこでは、作家Aはこう、作家Bはこう、作家Cはこうでした、というそれぞれの小結論が導出される。そうなると、「ABCはそれぞれこうでした」は論文の結論になりえない(古井の論文はそうなっていた)。それら3つの文学におけるアフェクトが、最初の根本的な批判との関係においてどのような意味を持つのかに論を回帰させなくては、結論を導けなくなる。つまりこうすると、着地点がアフェクト理論についての言明にならざるをえない。

 

そこでどのような具体的な事例を用いて、どのような結論、つまり主張を導けばよいのか、わたしは知らない。それはトップジャーナル論文規模の結論であり、アフェクト理論を広く学ばなくては思いつくことさえできないからだ。

 

だがアフェクト理論についても、メルヴィルについても、ほとんど何も知らなくても、古井の論文をここまで読み、評価することは、練習すれば誰にでもできる。人文学における研究者としての実力とは、メルヴィルアメリカや文学にどれだけ詳いかなどではなく、このように学術論文が読めること、そして、書けることなのである。

 

◻︎ ◻︎ ◻︎ ◻︎ ◻︎ ◻︎ ◻︎

 

追記:本書の発売日は3/11だが、このエントリを公開した3/9時点ですでにAmazonでは「予約注文」と書いてあるものの「在庫あり」になっており、すでに買えば発送される模様。

 

amzn.to

Out of the Pocket‪──‬「ネオ・ソウル」再考、あるいは複数化するグルーヴ

以下は、かつてrockin'onがオンラインで開催していた音楽文ONGAKU-BUN大賞という懸賞企画で入賞した文章である。

 

同企画は、たしか最初の数年間は大賞が30万円、入賞が10万円という賞金で年に1度の応募を募り、のちにブログのようなオウンド・メディアでの運営に移行した、のだったと記憶している。わたしは前者の、たしか2年目だか3年目だかに応募した、、、のだったと記憶する。ともかく、わたしの文章だけ極端にハードな文体と内容で浮きまくっていたことだけが強く印象に残っている。

 

で、Twitterで質問者に教わったのだが、どうも後者のメディアは消滅してしまったらしい。もっと早く教えてよ。というわけで手元に残っていたら公開しようかなーと思って探したらあった、というわけだ。

 

これを書いたのはたしか修士の2年とかで、出版されたのがたしか博士の1年とか2年とかである。すべてが定かでないが、まぁともかく、この文章がきっかけとなり、面識のなかったベーシストの大和田俊之先生がわたしを『ユリイカ』に紹介して下さり、ceroの特集号に書くことになったのが、私の商業誌デビューの経緯であった。

 

というわけでこの文章は数日前にアップロードした戦後サブカル論より3、4年も前に書いたものであり、クオリティはひどいものである。ただし私は、いまだにこの文章でしか成功していないことがひとつある。それは、ドラマーとして書くということだ。この文章はドラマーにしか書けない。

 

これまで音楽については何本も文章を書いてきたが、それらは研究者として書いたというか、プレイヤーでなくても書きうるものだった。頭は使っているが耳は使っていない文章だと言ってもよい。その一点においては、まだ私は以下の拙い文章の書き手を超えられていないのである。いずれぶっ潰す。

 

ではご笑覧ください。

 

◻︎ ◻︎ ◻︎ ◻︎ ◻︎ ◻︎ ◻︎ 

 

 

0.Out of the "Grid"

 

2000年のリリース以来ほとんどカルト的と評すべき支持を得続けている D'Angelo の名盤『Voodoo』は、その制作過程において、ギターのバッキングを Lenny Kravitz に打診していた。だが、ドラムのサンプル・トラックを試聴したKravitzの反応は以下のようなものであったという――"I can't play with this--there's a discrepancy in the drum pattern."


はたせるかな、Kravitzはオファーを辞退することになるのだが、ここで彼がドラムパターンに正しく聞き取っている "discrepancy" はしかし、『Voodoo』というアルバムが孕むおそらくはもっともクリティカルな要素であった。英和辞書的には「矛盾・不一致」を意味するこの "discrepancy" という表現を本稿では暫定的に「ズレ」と訳出しておきたいのだが、この「ズレ」こそは、2000年以降10年以上にわたってさまざまに解析され、模倣され、消費されてきた対象なのである。


『Voodoo』のドラマーである Ahmir "Questlove" Thompson はこの「ズレ」を指して、 "drunken-style-but-staying-on-beat" あるいは "post-J Dilla approach to drumming" と表現している。これらの言い回しがそれぞれに示しているのは、第一に『Voodoo』のドラムパターンの「ズレ」は明確に意識的・人工的なそれであったということであり、第二にその「ズレ」を画期的なかたちで最初に見出したのは J Dilla であるということである。J Dilla が「ズレ」を創出した経緯については後述するつもりだが、ここではその「ズレ」をいわば「ポップ」な次元に落とし込むことに成功した最初の――そしておそらくは最良の――アルバムが、ほかならぬ『Voodoo』であったということを示唆しておきたい。


ところで、「ズレ」が「ズレ」として認識されるためには、「ズレていない」状態、すなわち「正しい」位置というものが存在していなければならないはずだ。そこで想起されるのは、昨今しばしば目に/耳にする out of the grid という言い回しである。「グリッド」とは、たとえば「1小節をn等分したものがn分音符である」といった整然とした数学的基準、つまり「ジャスト」のタイミングを指し、out of the grid とは、したがってジャストからの逸脱を意味している。そしてこの反グリッド的傾向の源泉へと遡ればわれわれは『Voodoo』そして J Dilla 的「ズレ」におのずから逢着するはずだ......。


ジャンルの話に移ろう。『Voodoo』あるいは D'Angelo といえば現在では「ネオ・ソウル」的な音楽の典型として一般的に認識されている。これは名プロデューサー Kedar Massenburg がモータウンの起死回生を掛けて Erykah Badu、とりわけ『Mama's Gun』(2000)――やはり Questlove がドラムを叩いている――と『Voodoo』とに併せて貼りつけた、マーケティング色の強いレッテルであった。『Mama's Gun』や『Voodoo』がほんとうに「新しいソウル」なのかどうか、という議論はさほど実り多いものにはなるまい。ジャンルの名称などというものはえてしてミスリーディングなものである。だが、こと「ネオ・ソウル」というジャンル名に関しては、ひとつの大きな問題がある。つまり、『Voodoo』というアルバムがあまりに大きな――おそらくは予想以上の――影響力を獲得してしまったがゆえ、そしてそれと同時に、『Voodoo』においてもっとも目立つ特徴、その新しさは、まさに上述の「ズレ」というファクターにあったがゆえに、「ネオ・ソウル」という呼称と「ズレ」とは、切り離せない絆をはからずも取り結んでしまったのだ。


本論に入るまえに、近年の音楽シーンが「ドラマーの時代」と捉えられていることにも付言しておくべきだろう。Chris Dave、Richard Spaven、Mark Guiliana といったドラマーたちのポピュラリティを想起されたい。音楽の三大要素はリズム・メロディ・ハーモニーである――というクリシェが正しいのかどうかはさておき、現代はリズムという要素がかつてなく前景化されている時代であるという事実には疑いを容れない。もちろんその「現代」の幕を切って落としたのが『Voodoo』というアルバムであったというのが本稿の立場である。


「ドラマーの時代」の中核に「ネオ・ソウル」というジャンルがあり、そのまた中心には「ズレ」があった。このような見取り図を得るとき、「ネオ・ソウル」は「ソウルのリヴァイヴァル」としてのサブジャンルたることをやめ、ひとつのムーヴメントとしてわれわれの眼前に立ち上がってくるだろう。以下の論考は、その正体を掴まえることを目的とする。

 


1.The "Groove" Is Dead!

 


音楽は時間芸術である。だがその意味するところは、たとえばソナタ形式に内在するような音楽の「物語性」を感受するには一定の時間を要するといった事実にとどまるものではない。音楽の時間芸術的側面がもっともマクロな次元においては「物語」として現れるとすれば、もっともミクロな次元において看取されるそれは「グルーヴ」である。どういうことか。


グルーヴという概念あるいは現象については、その語源的解釈から始まって、さまざまな説明がなされてきた。しかしながらリズムというファクターに焦点を当てる本稿においては便宜上、さしあたり以下のごく単純な要素に話を限定して議論をすすめることにしよう。すなわち、第一にグルーヴとは、1・3拍目にキック、2・4拍目にスネア――ドッ、タッ、ドッ、タッ――、という基本パターンが反復されることによって生じる快楽である。


ここで注意しておきたいのは、このグルーヴ的快楽は、いわゆる4つ打ち系の音楽に合わせて4分音符で身体を動かすことに伴うトランス的快楽とは根本的に異なるということだ。4分音符にあわせて飛び跳ねる「乗り方」がいわば「点」的であるのに対し、グルーヴのそれは、キックとスネアの音色の差異とそれらの関係によって生じるがゆえに、一定の「幅」を必要とするためである。


だが真に重要なのは、キック(ドッ)とスネア(タッ)の音色の違いそのものではなく、それらのあいだの「関係」のほうなのだ。先の「ドッ、タッ、ドッ、タッ」というロックの基本パターンにおいては、よく知られているように、「ドッ」から「タッ」までの距離、すなわち、キックが鳴ってからスネアが鳴るまでの時間と、「タッ」から「ドッ」までの時間は、等しくない。前者のほうが長いのである。これは演奏・聴取の感覚としてはスネアが「遅れて」聴こえるため、スネアの「レイド・バック」と呼ばれる。これがロックのビートが「グルーヴ」するための条件である。すなわち、スネアが少しだけ遅れて鳴る(=ジャストで鳴らない)ことにより、そこに一瞬ながら宙吊り状態の緊張が生まれ、その緊張が2拍ごとに絶妙なタイミングで解消されるというわけである。和声的語彙で比喩的に言い換えれば、ロックのグルーヴにおいては2拍単位でリズム的テンション&リリースが生じている。2拍ごとに「解決」が起こっているのだ。これがさきに述べたグルーヴの時間性ということの正確な意味である。トランス的快楽とは異なり、グルーヴ的快楽はグリッド的な正確さからは生まれない。


「ロック」という限定には語弊があるかもしれない。というのも、上述の2拍解決ユニットの反復によるリズムの推進というメカニズムは、現代のわれわれを取り巻くほとんど全てのポップ・ミュージックに通底しているものだからである。4分の4拍子の圧倒的なヘゲモニーはしばしば指摘されるところであり、また一目瞭然でもあるが(3拍子の曲さえめったにない)、それらの音楽には、2拍解決のユニットで進行してゆくグルーヴの構造がつねに付随しているのである。


ゆえに、普段われわれが耳にする音楽にリズム的な「気持ちよさ」――グルーヴ的快楽――があるとすれば、それはすでにジャストからの「ズレ」(=スネアのレイド・バック)によって発生していたのであり、したがって、『Voodoo』のようなリズム的逸脱の説明として out of the grid という表現は二重に不十分である。グルーヴはこれまでもグリッドに乗ってなどいなかったのだし、であれば『Voodoo』が「逸脱」してみせたところの「基準」とは、グリッド=ジャストではなかったことになるからである。ではその「基準」、すなわち「ズレていない状態」と見做されるものとは、いったい何か。


スネアのレイド・バック、すなわちジャストからのズレ具合には、当然のことながら程度の差が存在する(程度の差が存在しないのは数学的基準のみである)。そうである以上、そこには許容される範囲というものがあるはずだ(たとえば8分音符ひとつぶん遅れるといったことは有り得ない)。この遅れの許容範囲は、むろんデジタルな解析も可能なのだろうが、プレイヤー界隈においては、おおむね「わかる奴にだけわかる正しいタイミング」として暗黙裡に了解されているものである。そしてこの基準は俗に、「ポケット」という符牒で呼ばれてきた。

 

この「ポケット」を最初に体現したと考えられるのは――The Beatles ではなく――Led ZeppelinJohn Bonham(1948-80)であった(むろんグルーヴ概念をこれよりも長いタイムスパンで捉えることは可能だろうが、それを十分に考察する準備はない)。イギリスのロック・ドラマーである Bonham が70年代に打ち立てた基準を、80年代にアメリカ西海岸の売れっ子スタジオ・ミュージシャン Jeff PorcaroMichael Jackson の『Thriller』(1982)に代表されるポップ・ミュージックをつうじて人口に膾炙させるに至り、最終的に、スネアのレイド・バックは「聞こえなくなった」。つまり、レイド・バックした状態が全面化した結果、そのズレこそがデフォルトの座を獲得したのであり、ひるがえって、その「ちょうどいいズレ」の基準を内面化したプレイは、"in the pocket" という表現でその「正しさ」を承認されるようになったのである。


かくして「ポケット」は不可視化され、ひとつの「制度」となる。じつのところ「ポケット」というリズム的基準はスネアのバックビートのみに限定されるものではなく、あらゆる楽器のあらゆる出音に対してそれぞれに作動する、いわば監視装置のようなものなのである。この装置が厄介なのは、数学的基準とは異なり、それが「わかる奴にだけわかる」という神秘的なものであるためだ。それは、数学的基準からの別の種類の逸脱を否定し、唯一の正しいグルーヴのあり方、すなわち唯一の正しい快楽としての覇権を握る。
 

したがって、『Voodoo』的な逸脱が破壊しようとしていたのは、グリッドという数学的基準などではなく、ポケットという名のイデオロギーであった。「ズレ」たビートが仮に「気持ち悪い」、あるいは「間違っている」と感じられるとすれば、それはわれわれの耳がグルーヴ的快楽の条件として「ポケット」という唯一の基準しか許容しようとしないせいではないのか、その制度化された「気持ち良さ」に安住しているせいではないのか――『Voodoo』というアルバムは、そうした問いをわれわれに突きつける。


だが、ここで次なる疑問が生じる。それは、そもそも彼らにこのような逸脱的な発想が可能になったのは、いったい何故だったのだろうか、というものである。以下ではその歴史的な条件について考えつつ、『Voodoo』的逸脱の必然性を捉えることを目指そう。

 

2.Taming the "Discrepancy"

 


冒頭でも述べたように、『Voodoo』的な「ズレ」の源泉はJ Dilla(1974-2006)にある。その名は、繰り返すならば、D'Angeloの発案によって『Voodoo』に織り込まれることになったドラムのズレの感触を指し示すのにさえ想起される名なのであって、いわば、これまで述べてきた「ズレ」の特許権J Dillaというアイコンに帰属すると考えられているのである。


だが、本稿が目指したいのは、たとえば「このズレを発案したのは本当に Dilla」なのか、といった時代考証的なものではない。言うまでもなく、本人が夭折したこともあって、このようにして言及される Dilla の名はたぶんにロマンティサイズされたものである。したがって、以下では Dilla をひとまずその第一発見者であると仮定したうえで、では彼がそれを発見できたのは何故だったのか、というふうに問いを立てたいと思う。歴史を画するような価値ある発見というものは、けっして偶然になされるものではない。そこにはつねに歴史的必然性がある――あるいはこれは一般化に過ぎるかもしれない。言い換えよう。それを発見することが大きな価値となるような対象を「発見」することは、その対象の発見が価値であるということを認識しうる条件が整ったときにのみ、可能となる。


まわりくどい言い方になってしまったが、これは逆に表現したほうがわかりやすいかもしれない。すなわち、Dilla が1990年代に「発見」した「ズレ」は、90年代以外の時代においては、そもそもそのようなズレとして認識されることが不可能だったはずなのである。つまり、Dilla の発見したズレは、90年代において初めて「ズレ」として世界に存在し始めた種類の「ズレ」なのだ。

 

Dilla の経歴を語るさい、かならず言及されるのが彼によるMPC(Music Production Center)と呼ばれるサンプラーの(巧みな)使用である。MIDIやドラム・マシンといった電子機器がテープ・エディットなどに取って代わるようになるのは80年代以降の出来事であり、Dillaがそれらを触り始めたのは、それが普及した90年代のことであった。

 

ここでひとつのポイントになるのは、こういったサンプラーは、パッドによって手で直接音を打ち込むことが可能だったという点である。たとえば、クリックに合わせて1小節ぶんキックとスネアのパターンを右手と左手を使ってタイミングを見計らいつつ入力すると、その1小節の単位が無限にループする、といったしくみだ。今現在「打ち込み」や「手打ち」といったときに想起されるような作業のことである。だが、もちろん手で入力すれば――むろんドラムセットに座って四股でプレイしても同じであるが――不可避的にグリッドからの「ズレ」が生じることになる。そのため、サンプラーには「クオンタイズ」という機能が備わっている。これはつまり、ちょっとしたズレをグリッドに「吸着」してくれる、いわばリズム補正機能のことである。


ここまで述べれば、Dilla によってズレがどのようにして見出されたか、もはや想像がつくだろう。Dilla は、クオンタイズを経ないズレた手入力のビートをあえてそのまま提示したのだ......。

 

しかし、である。なぜクオンタイズを経由しない、少しばかりズレているだけのビートが、それほどまでの衝撃を持って受け止められたのであろうか。たとえば、すでに見た「ポケット」からしてすでに「ズレ」を内包していたはずではなかったか。Dillaのズレの何がそれほどまでに特別だったのか。われわれは何かを見落としているのではないだろうか。

 

MIDIなどのテクノロジーはドラマー不要説という恐怖を定期的に引き起こし、かつ、その恐怖はつねに杞憂におわってきた。このこと自体が面白い問題を含んでいるのだが、それはすぐ後で述べるとして、ここで改めて思い出したい事実は、ドラム・マシンが脅威になり得たのは、それがあまりに正確であったためだ、という素朴な認識である。だがしかし、その意見を素朴だと考えるとき、ドラム・マシン以前には完全にジャストな演奏というものはこの世に存在しなかった、という事実をわれわれは忘却しているのではないだろうか。つまり、それまでは真の意味での「ジャスト」というもの、最初から最後まで寸分の誤差もなく刻み続けられるビートというものは、実質的には実現不可能だったのである。


言い換えるなら、「ジャスト」はドラム・マシンがついに「達成」したものであっただけではなく、それは、ドラム・マシンというテクノロジーと同時に「発明」されたものだったのである。したがって、「ポケット」がそこから遅れていたはずの「ジャスト」とは、数学的・抽象的に措定された基準であったにすぎず、じっさいに人の耳によって聴かれたことはなかったのだ。そして、さらに重要なことに、「ズレ」という概念は、その「ジャスト」の発明の瞬間に、その対立項として、構造的に存在を開始したということである。「ズレ」と「ジャスト」は双生児として産まれた。

 

そして、「ズレ」という名の異形の鬼子を育て上げた親、それが J Dilla であった。しかし先にも述べたように、「ポケット」もまた「ズレ」のひとつであったはずだ。したがって、ここには2種類の「ズレ」が存在している。ポケット的なズレと、Dilla 的なズレ(=discrepancy)である。そして Dilla はおそらく、このことを正確に知っていた――すなわち、ポケットというズレが、快楽のありかたを独占しているという事実をである。したがって、彼はジャストと同時に出現したズレを、非ポケット的な方向へと、意図的に増幅していったのである。彼は別のリズムへ、そして別の音楽へと向かった。そしてついに別の快楽、別のグルーヴを説得的に提示することに広く成功したのが、『Voodoo』というアルバムだったのである。


このとき、グルーヴのありかた、「気持ち良さ」のありかたは、一挙に複数化するだろう。このとき、大文字の〈グルーヴ〉、すなわちポケットは、死滅する。Kravitz の言う "discrepancy" こそがこのアルバムのもっともクリティカルな要素だったと冒頭で述べたのは、このような意味においてである。そこで Kravitz が聴き取っていたのは、「ポケット」という制度からの脱出、すなわち "out of the pocket" という解放的スローガンの叫びだったのだ。



3.Choose Your Weapon

 


冒頭で、現代(おおむね2000年以降)はドラマーの時代である、と述べた。菊地成孔がどこかで、Robert Glasper Experiment のアンサンブルを評して「ピアノがドラムの伴奏をしている」と述べたことがあったように記憶するが、現在の音楽シーンをドラマーが率いているらしいことは誰の目にも明らかである。そこで、Dilla がサンプラーによって革命を起こしたという事実と、そのインパクトの圏域にある現代がドラマーの時代であるという事実との関連を、最後に整理しておきたい。


この問題を考えるにあたって重要なのは、楽器はそれぞれの種類によってテクノロジーとの「棲み分け」のありかたが大きく異なるという事実である。たとえばMIDIのようなショボいサウンドで、トランペットとドラムのどちらが再現しやすいかを考えてみてもらいたい。おそらく打楽器はあらゆる楽器においてもっともテクノロジーとの相互干渉が激しい楽器なのであり、したがって、ドラムを演奏する人間がいっこう絶滅の兆しを見せない以上、ドラマーはつねにテクノロジーの脅威を「乗り越えてきた」ばかりでなく、むしろその脅威を、技術的限界のブレイクスルーの契機としてきたはずなのだ。


この事実からわかることは、次の2点である。第一に、人間の技術的限界は認識の限界によって制限されているということだ。つまり、機械によってであれ何によってであれ、世の中に新たな「音」が生まれれば、それを人間はどうにかして再現してしまうということである。これはあらゆる複雑なパターンを素面で繰り出す Chris Dave にも当てはまるし、Dilla が機械で発明した「気持ち悪さ」を人力で再現してみせる Questlove にも当てはまることだ。第二に、「ドラマーの時代」たる現代の音楽においては、リズムという分野においてこそ新たな地平が開拓されているということだ。「『Voodoo』のドラムはズレている」という主張には、むしろすべての楽器のタイミングがズレているのではないか、たとえばギターのカッティングだってズレているはずだ、という反論が当然ながら想定される。然り、たしかにすべての楽器がズレているのである。ただし、それは打楽器という分野においてドラムとマシンとの特異な関係によって見出されたものの他楽器に対する「応用」にすぎない。だからこそ、現代はドラマーの時代と呼ぶに値するのである。


そしてこの時代が実現したのは、Dilla のアヴァンギャルディスムがポップな次元に落とし込まれた、『Voodoo』の衝撃の結果であった。であるならば、このアルバムと共に記憶されているネオ・ソウルというジャンルの本質は、あらゆるグルーヴ的快楽のありかたの追求というムーヴメントとして、再定位される必要があるだろう。


議論を整理しよう。70年代において、正確にグリッドに乗った「ジャスト」の演奏は、実質的には存在していなかった。けれども、それを数学的に措定したうえで、そこから少しだけ遅れて鳴るというテンション・アンド・リリースの構造に則って「グルーヴ」は成立し、これはやがて「ポケット」と呼ばれ、グルーヴ的快楽の唯一的な条件となった。つづいて、80年代から90年代にかけてサンプラーが普及するに至り、「ジャスト」というものが実体として出現し、それと同時に、「非ジャスト」としての「ズレ」が構造的に生じることになった。このとき、グルーヴ的快楽を生むことができる唯一のズレ=ポケットと、それ以外のズレ= "discrepancy" という2種類のズレの存在が明らかとなる。Dilla はこの "discrepancy" を洗練させ、ついに2000年、ポケットとは別のグルーヴ=別の快楽の提示に成功した。かくして、21世紀初頭にはリズム大変革の時代が訪れることとなったのである。


したがって『Voodoo』以後の21世紀を生きるわれわれには、数学的な基準である「ジャスト」、制度としての「ポケット」、そしてそのどちらからも逸脱する「ズレ」という3つの選択肢が与えられていることになる。本稿が「ポケット」を問題視してきたのは、それがわれわれの「快楽」のありかたを唯一的に決定する排他的な制度だからである。そして『Voodoo』というアルバムを高く評価したいのも、それが「快楽」の複数的なありかたを提示することに成功したからである。それは完全な意味で、ポケットから脱出した。そしてそのリリースから15年以上が経過した現在、われわれは、いかなるズレによって快楽を生み出すことも怖れる必要はない。そう、これからは、どんな武器を選んでもいいのだ。

戦後日本のサブカルチャーにおける加害としての暴力

以下は、2020年の『群像』新人賞で最終選考まで残り、落選となった文章である。

 

これはもともと同賞への応募原稿として書いたわけではなく、アメリカ留学中に何十本と書いたノートの1つである。留学1年目の第2セメスター終盤、わたしは履修していた授業のレポートとして2つのアイディアを抱えていた。結局はもう片方の案、村上春樹ねじまき鳥クロニクル』論をレポートとして提出したのだが(これは論文化された)、その後、夏休みに入ってヒマになったので、提出のアテもないまま、もう片方のアイディアを日本語で文章化することにしたのだった。同賞に応募したのは、その約2年後である。

 

なるほど、いま読むと院生のノート以上のなにものでもないが、もはや改稿して論文化する意味もないので、誰でも読めるようブログ記事として放流することにした次第である。これを読んで若い人たちに「阿部も留学初期はこんなもんか(じゃあ自分もイケるな)」と思ってもらえたら、とても嬉しい。

 

わたしはのちに「被害学 victimology」というタームを用いて論文を書くようになった。これはあまり良くない用語で、なぜなら半分は加害性の問題だからなのだが、ともかく、この用語で言おうとしているのは、ひとは自分を加害者であると認識することに強い抵抗を覚えるし、なんなら自分はむしろ被害者なのだと考えたくなる傾向にあるが、しかしみずからの加害性を見つめることなしに意味ある人文学などありえない、ということだ。以下の文章は、そのアイディアの最初期の拙い表現である。

 

この「被害学」をキーワードとして書いた論文群は8割がた出版済みで、全部出れば日本語にしておよそ20万字ほどになる。いまこれらを纏めて書籍化してくれる出版社さんを探しているので、もし興味があればご連絡いただけると嬉しい。プロジェクト内容について、より詳しくは私のホームページに書いてある(kodaiabe.com)。

 

ではご笑覧ください。

 

◻︎ ◻︎ ◻︎ ◻︎ ◻︎ ◻︎ ◻︎ 

 

 

 ゴジラ・シリーズのオリジナルである1954年の映画『ゴジラ』は、同年3月1日に行われたビキニ環礁における米軍の水爆実験と、それによって遠洋マグロ漁船の第五福竜丸被爆した事件への、きわめて即時的な応答として制作されたことが知られている。じっさい、作中でゴジラは水爆実験の結果として安住の地を逐われたものと推定されており、また同時に、ゴジラの吐く白熱光で焼かれた跡からは高濃度の放射能が観測される。つまりゴジラは人類による原子力の使用にたいして罰をくだす怒れる神でありながら、それじたいが原子力アレゴリーでもある。そこでビキニ環礁第五福竜丸という背景をもういちど考えれば、『ゴジラ』においては、アメリカによる水爆実験の被害者であるはずの日本が、アメリカのかわりに罰されるという奇妙な事態が生じていることがわかるだろう。このプロットにおいて日本は、アメリカとゴジラによって、原子力の二重の被害者となっている。そして、日本の都市を破壊する原子力アメリカとは、とりもなおさず、第二次世界大戦で日本に投下された原子爆弾の反復にほかならない。ゴジラの東京上陸の進路が東京大空襲におけるB-29のそれと一致している事実は有名だが、ゴジラはほとんど文字どおり、米軍による東京への原爆投下なのだ。ゴジラは戦争とアメリカと原子力とを一挙に体現する巨大な暴力の化身であって、『ゴジラ』は、被害者たる日本がそれを駆逐し鎮める物語である。

 この被害者意識の強さが示唆しているのは、ゴジラを顕著な例とする戦争級の暴力を想像するとき、戦後日本は、加害者をアメリカとして、そして被害者を日本として思い描くことに慣れきっている、という傾向である。日本人の戦争にまつわる想像力から加害者意識が欠落していることはつとに指摘されており、すぐに見るように、その典型的な構図を、たとえば加藤典洋高橋哲哉のいわゆる歴史主体論争においても確認することができる。そもそも少なからぬ日本人は、戦争の悲惨に漠然と思いを馳せるとき、まっさきにヒロシマを想起してしまう自分を見いだすだろう。そのとき日本は、アメリカによって暴力を加えられた被害者である。だがもちろん、日本は第二次大戦において世界最大・最悪の加害国のひとつであった、が、この歴史に意識的である者にとってさえ、日本を一種の被害者として想像することをみずからに禁じるのが困難であるほど、それは日本人の意識に深く浸透しているように思われる。アジアにおける加害者としての日本というイメージは、原子爆弾という象徴的なトラウマと、つづくアメリカが主導した東京裁判における戦犯の戦後処理などの帰結として、抑圧・忘却され、歴史的無意識の領域へと追いやられている。日本を被害者として表象するそうした傾向は、多くのサブカルチャー作品において顕著にあらわれ、あとでそのいくつかを分析するように、この欺瞞と共犯的な作品はしばしば絶大な人気を博してきた。本稿が上述の文脈でおもにサブカル作品の暴力表象に注目しようと思うのは、それらが、日本の加害性という(不都合な)歴史などものともしない、被害者としての日本という集合的な願望の根深さをてらしだす文化的な記録だからである。

 だが本稿の方法と目的は、日本を明示的に加害国として告発する作品を取りあげ、それを評価することにはない。たとえば『はだしのゲン』は南京大虐殺といわゆる「従軍慰安婦」問題を直接的に描いて禁書扱いにもなった重要なサブカル作品だが、そうした意味での「リベラル」な問題提起ならば、どんな形態の言説においても可能である(むろん『はだしのゲン』のすべてがマンガ・アニメ以外の表現形態において代替可能だと言うのではない)。以下で試みたいのはむしろ、『ゴジラ』をふくめ、暴力をより娯楽的に、そしてしばしば問題のある方法で――すなわち日本=被害者というイデオロギーの強化に加担する方法で――表象するかに見える諸作品の内部から日本の加害性を摘出する作業である。そのさい、本稿はつぎの作業仮説を念頭に分析をおこなう。すなわち、日本=被害者というイメージの形成は、製作者と鑑賞者の単純な共犯の結果なのではなくて、みずからを被害者として想像することに慣れきっている受容者たちは、かりに作品が日本の加害的側面を描いていても、それを不当に見落としがちなのではないか、というものである。そのため本稿は、暴力の加害面に、通常の読解よりも積極的にフォーカスすることになるだろう。戦後日本のサブカルチャーにおける加害としての暴力。それを注視するとき、われわれはアジアとアメリカに挟まれたこの国が現在まで引きずる、加害と被害のねじれにねじれた関係の一端をときほぐすための視座を手にすることを期待したい。

 もちろん、上述の目的に資する作品は無数に存在するだろう。したがって作品選択には困難がともなうのだが、本稿の関心は上述のように集合的・大衆的な傾向にあるので、なるべく社会現象レベルのブームをみた作品、すなわち、日本人の集合的無意識に強烈に訴えたと思われるものを選択した。それでもなお作品群は膨大であるため、ここでは、上述の問題意識を念頭におきつつ、時代をおよそ2000年以降に絞ることにした。具体的に扱うのは、発表年順に挙げれば、1999年に出版されるやカルト的人気を博した高見広春の小説『バトル・ロワイアル』、2000年から13年まで『週刊ヤングジャンプ』に連載された奥浩哉GANTZ』、03年から06年まで『週刊少年ジャンプ』に連載された『DEATH NOTE』(原作・大場つぐみ、作画・小畑健)、『別冊少年マガジン』に09年から連載されている諫山創進撃の巨人』、そしてゴジラ・シリーズ第29作にあたる、庵野秀明総監督による16年の『シン・ゴジラ』である。すべてが商業的に大きな成功をおさめた作品であり、また毛色は違えど、すべてが暴力を主題としたサブカル作品である。これら諸作品の分析をつうじて本稿が提出する見取り図が、戦後全体をふくめた日本の暴力表象における加害性と被害性の問題を、より歴史的かつ包括的に論じるための足掛かりのひとつになればよい。

 

1 歴史主体論争からサブカルチャー

 

 本稿の関心にもっとも見通しのよい文脈を与えてくれるのは、いわゆる歴史主体論争における加藤典洋高橋哲哉の対立である。高橋は、「新しい歴史教科書をつくる会」の発足に代表されるような1990年前後における「日本のネオナショナリズム」の台頭をきびしく批判し、なかでも加藤の『敗戦後論』に見られる諸問題の指摘に多くの紙幅を割いている。90年前後といえば、82年に最初の歴史教科書問題が発生、85年には南京大虐殺記念館が設立され、89年には昭和天皇が逝去し、91年にはいわゆる「従軍慰安婦」問題が国際的に注目を浴びるなど、大戦における日本の戦争犯罪がアジアの内外において一挙に回帰した時期であるが、こうした一連の動きを可能にした最大の条件は、なによりも冷戦の終結であった。東京裁判において実質的に主導権を握っていたアメリカが、戦後の冷戦構造における政治的・経済的利益をみこんで、日本の戦後復興を優先すべく、昭和天皇を筆頭に多数の戦争犯罪者を恣意的に罷免したことは知られているが、冷戦期においてもアメリカは現在ネオ・コロニアリズムとよばれるような精妙な権力装置をつうじてアジアの犠牲者たちに沈黙を強いてきた。その日米の強固な共犯関係が緩みはじめた結果、アジアによる日本の告発が可能になったわけである。まず『群像』誌に論文として掲載された加藤の「敗戦後論」は94年であり、高橋はこれに即座に応答しているが、歴史主体論争もまた上記の歴史的文脈のなかから生じたものであった。そして高橋の批判をひとことでまとめるならば、加藤の戦後論においては日米関係の問題が優先されるあまり、「アジアの他者との関係が排除されている」ということ、すなわち、加藤は日本をもっぱら被害者として想定しており、加害者としての側面を見ようとしないということである。日本人にとって戦争とはアメリカによって加えられた暴力であるという一般論の症候を、ここに見いだすことができる。この偏ったイメージは「大衆」にのみ浸透しているイデオロギーではないのだ。

 歴史主体論争をサブカル批評に接続すべく、高橋が加藤に見いだしたのと同型の問題を、つづいてマンガ批評に見いだしてみたい。論点を絞るために、以下では大塚英志の『アトムの命題』ならびに夏目房之介の『マンガと「戦争」』に言及するにとどめる(したがって三者がひとしく同様のイデオロギーに染まっていると主張したいのではない)。さて、これもまたよく知られているように、大塚は手塚治虫作品を扱いつつ、日本の戦後マンガにおける身体性について繰りかえし論じている。マンガ表現においては、たとえばハンマーでぺしゃんこに潰されたキャラクターが次のコマでもとに戻る、といったわれわれにもお馴染みの「お約束」が存在するが、そこでは傷つき死にうる生身の身体というものが度外視されていると言える。これはミッキーマウスを代表例として、戦中・戦後の日本にアメリカから輸入された表現技法であり、みずから「まんが記号説」を唱えた手塚もまた、その強い影響のもとで創作していた。このいわば偽物の身体を、大塚は「記号的身体」と呼ぶ。こうした状況下において手塚が挑戦したのは、大塚によれば、リアルな身体を単純に取り戻すことではなく、この記号的身体そのものに血を流させるという矛盾の追求であった。そこで大塚は戦争マンガである手塚の『勝利の日まで』(1945)を読むのだが、注目されるのは、第一にこの作品内においてはアメリカの爆撃機が突出して写実的に描写されること(ただしミッキーが操縦している)、第二にその爆撃機による機銃掃射によって日本人キャラクターの記号的身体が血を流すという事実である。かくして大塚は手塚のジレンマを第二次大戦(後)の日米関係に見いだす――

 

手塚がミッキーに自作のキャラクターを銃撃させ、そしてそこに「ぬいぐるみ」の身体を逸脱する生身の身体を与えたことは、この国の戦前及び戦後に於けるアメリカニズムの受容のあり方を考えた時、興味深い。[…]戦争という圧倒的体験がディズニー的な非身体的キャラクターを血肉のあるものに変化させた[…]。ぼくが手塚まんが及び戦後まんがを、徹底して「戦後史」の問題として考えるのはその発生が手塚の「戦争」体験に基づくからである。

 

大塚の議論を本稿の語彙で総括すれば、それは、アメリカの影響をうけた戦後日本のマンガ表象においては暴力は無効化される傾向にあるのだが、戦争をアメリカによってみずからに加えられたリアルな暴力として記憶している手塚は、その被害者としての記憶をアメリカからの輸入物である記号的身体に刻みこむことによって、人を傷つけない加害的暴力、というアメリカの欺瞞を暴くということである。大塚のマンガ論において、暴力における加害と被害のエコノミーは日米関係の内部で完結しており、そのかぎりで日本の加害的側面が問題化されることはありえない。

 夏目の『マンガと「戦争」』は、大塚を踏まえれば非常に理解しやすい議論を展開している。夏目の仮説は、戦争の記憶が世代を追うごとに薄れてゆくにつれて、日本のマンガにおいては、第一に戦争にたいする態度がニュートラルになり、第二に、ここでは大塚の語彙を拝借すれば、身体の記号化が極限まで進むということである。夏目はその極北を1994年の『新世紀エヴァンゲリオン』に求めているのだが、そこで興味ぶかいのは、「こうした論旨の展開は、じつは私の好むところではない」としながら、夏目が「[戦争]体験の蓄積しにくい身体からの救済や再生が、マンガの「戦争」イメージに求められてきた」と結論していることである。夏目がこの結論を躊躇する理由は、もちろん、戦争/暴力(の表象の消費)が一種のカタルシスとして作用すると主張するに等しいからであろう。だが2000年以降の日本のサブカルチャーは、夏目の慎重さをあざ笑うかのごとく、カタルシスとしての過剰な暴力を、ほとんど嬉々として描いてきた。その作品数はまったくもって夥しいと言うほかなく、デス・ゲームと呼ばれる一連の作品群を中心に一大ジャンルを築いており、その数は年々増加の一途をたどっている(もちろん人気だからである)。そこで夏目の議論に依拠しつつ本稿がフォーカスしたいのは、救済や再生としての暴力が描かれるとき、その加害性と被害性が誰に振りわけられるかという問題である。第2節ではこの問題を、こんどは分析する順に列挙すれば、『GANTZ』、『進撃の巨人』、『DEATH NOTE』、『バトル・ロワイアル』の比較をつうじて見てゆくことにしたい。

 

2 暴力の根源、暴力の善悪

 

 いま挙げた諸作品を論じるにあたっては、宇野常寛の『ゼロ年代の想像力』が有益な枠組みを提供してくれる。宇野は、2001年を分水嶺として日本のサブカルにおける想像力が大きく転換するとして、「古い想像力」の代表として『エヴァ』を、そして「新しい想像力」の代表に『DEATH NOTE』を位置づけている。『エヴァ』の主人公である碇シンジについて、宇野は「シンジの「引きこもり」気分=社会的自己実現に拠らない承認への渇望が、90年代後半の「気分」を代弁するものとして多くの消費者から支持を受け」たとし、これを「「引きこもり/心理主義」的傾向」、あるいは「「〜しない」という倫理」として一般化している。それにたいして――

 

二〇〇一年前後、この「引きこもり/心理主義」的モードは徐々に解除されていくことになる。[…]九〇年代後半のように「引きこもって」いると殺されてしまう(生き残れない)という、ある種の「サヴァイヴ感」とも言うべき感覚が社会に広く共有されはじめたのだ。[…]こうしたゼロ年代前半のサブ・カルチャーを特徴づけた想像力は、九〇年代的な「引きこもり」思想が怯えていた「社会の不透明さ」を、ある種の前提として受け入れている。そして、その上で、九・一一後の世界が突入したシビアな格差社会、バトルロワイヤル状況を自分の力で生き延びていこうとする積極的な意思に溢れている。そこでは九〇年代的な幼児的自己愛の承認を求め続ける「引きこもり」的態度が、諦念を折り込み済みで他者に手を伸ばす態度によって克服されているのだ。

 

ここで「諦念」とは、「間違った社会にコミットすると他人を傷つけるので何もしない」シンジ的態度から、「たとえ「間違って」「他人を傷つけても」何らかの立場を選択しなければならない」という「決断主義」 への移行として説明される。他人を傷つける可能性にコミットすることの不可避を、シンジのような弱い少年は「諦念」をもって受忍するかもしれないが、ある種の人々の眼にそれは暴力への免罪符として――あるいはまさに救済や再生として――映るであろう。かくして暴力の加害性が前景化しはじめる。こうした視点に立つとき、まさに「バトルロワイヤル状況」と「サヴァイヴ感」を主題化した99年の『バトル・ロワイアル』は、宇野の言う「新しい想像力」のさきがけとして位置づけられることになり、じっさい本作品を嚆矢として暴力系サブカル作品は大量に生産されつづけている。以下そうした作品群を、便宜上「暴力モノ」と呼ぶ。

 ここで年代的には古い『バトル・ロワイアル』ならびに『DEATH NOTE』を分析するまえに、いずれもメガヒットとなった『GANTZ』と『進撃の巨人』の比較を挿入したい。両作品はともに、マンネリ化した退屈な日常に突如として圧倒的な暴力が闖入し、主人公の世界が混乱に陥るという設定を共有している(このパターンは大多数の暴力モノが採用している)。そうした設定をもつ無数の作品群のなかでも、この二作品はとりわけ典型的であり、また非常に興味ぶかいコントラストをなしている。まず『GANTZ』では、事故などによって死亡したはずのキャラクターたちが、「GANTZ」なる未知のパワーによってバーチャル空間へと拉致され、生死のステータスが曖昧なまま「星人」と呼ばれる敵を倒す戦闘ゲームに強制参加させられる。退屈な日常を生きる平凡な青年である主人公の玄野計は、そこで繰り広げられる過剰に暴力的なバトルの刺激に目覚め、生きがいを取り戻してゆくのだが(これが夏目の言う救済/再生である)、注目すべきなのは、第一に本作では地球人であるキャラクターたちにとって暴力が星人やGANTZといったまったくの他者に帰されているという事実であり、第二に、その一連の謎の暴力の根源に、奇妙な身体のイメージが置かれていることである[図1]。

 いささか遠回りになるが、このイメージを理解するには、戦後サブカルにおける核表象の推移という文脈を参照する必要がある。じっさいはこの文脈じたいが詳細な考察に値するのだが、本稿では杜撰な見取り図を駆け足で提示するにとどめるほかない。その見取り図とは、戦後、①冷戦期には核戦争の脅威が直接に反映された作品が流行し、② 80年代に入ると第三次大戦以後の砂漠化した世界におけるサバイバルが主流になる、というもので、私見では近年、③抽象化した謎の暴力システムの根源に身体と核分裂が融合したイメージが置かれるパターンがめだつ。ここでは③の例として『エヴァ』のアニメと大友克洋AKIRA』を参照しよう。図2は『エヴァ』の世界に攻め入ってくる「使徒」の始祖リリスに刺されたロンギヌスの槍を抜いた瞬間、その肉体がぶよぶよと膨張してゆく場面である。この第二使徒リリスを生み出した第一使徒アダムの肉体は、そもそも『エヴァ』のポスト・アポカリプス的世界を現出した「セカンド・インパクト」というカタストロフィの原因であり、つまり使徒の身体は原子力/核戦争のアレゴリーである。たほう、やはり核戦争以後の世界を舞台とした『AKIRA』の図3では、ヒールである鉄雄の肉体がぶくぶくと巨大化しつつ、同時に幼児化していく様子が描かれている。これもまた核分裂のイメージであり、彼はじっさい核爆発をおこす。図1の『GANTZ』に戻れば、これら三点のビジュアル的な類似だけでなく、核分裂・グロテスクかつ無機的な身体・死と誕生、といった共通の主題の合流が確認できるだろう。これらはサブカルが暴力の根源にあたえる核表象の、比較的あたらしい系譜である。『GANTZ』で玄野が無邪気に加害者でいられるのは、そもそも彼がこうしたシステマティックかつ超越的な暴力の被害者であるという前提に守られているからであり、その巨大な暴力の根源は、原子力と不可分である。この構図は、原爆投下を口実に第二次大戦における日本の被害者性を前景化し、これを隠れ蓑としてみずからの加害性を隠滅する戦後日本の論法に、かぎりなく接近していると言える。

 

図1 奥浩哉GANTZ』第369話

図2 庵野秀明監督『新世紀エヴァンゲリオン』第21話

図3 大友克洋AKIRA』第6巻44頁

 

 つづいて『進撃の巨人』では、かつて巨人によって殺戮された者たちの生き残りが、巨人も超えられない高い壁によって囲まれた都市国家に暮らしているのだが、物語の開始時点においては100年以上にわたって被害がないため、主人公エレン・イェーガーをふくむ内部の者たちにとって巨人の脅威はほとんど形骸化している。そこへ「超大型巨人」があらわれ壁を破壊するところから物語は始まるが、この巨人たちの正体は、ふだんは壁の内側に暮らしており巨人を駆逐する任務を負っているはずの兵団員の一部であることが物語の序盤で早々に判明してしまい、その結果、巨人=加害者=悪、われわれ=被害者=善、という二分法が崩壊する。かくして『進撃』では、暴力にたいする倫理的価値づけの不可能性がひとつの主題となる。巨人の視点を内面化したエレンたちは、もはや軍事力を被害者がふるう正当な暴力であると信じることができず、巨人の駆逐にさいして躊躇することになる。そこで暴力はつねに加害性に憑きまとわれ、そのぶん、巨人が行使する暴力のまえでエレンたちの被害者性は退潮する。『GANTZ』が主人公の加害者性を戦後日本のように隠蔽していたのにたいして、『進撃』はその欺瞞への自覚をテーマにしているとまとめられるだろう。

 さて、この比較から得られた見取り図をもって『DEATH NOTE』に移ろう。この物語は、高校に通う主人公の夜神月が授業中に頬杖をついて窓の外を眺めるという典型的な退屈のジェスチャーから始まり、グラウンド上にひらりとデスノートが降ってくる。月は「このノートに名前を書かれた人間は死ぬ」という文言に当然ながら半信半疑なのだが、物語はそこから5日とび、月の部屋に死神のリュークが現れると、すでに彼はみずから悪人と判断した大量の人物を殺し終えている(リュークはノートを人間界に落とした理由を「退屈だったから」と語って月を驚かせる)。かくして月は「新世界の神となる」と宣言するにいたるのだが、彼の処刑対象は社会的にひとまず「悪人」と見做せる犯罪者たちから徐々に逸脱してゆき、最終的に彼は父親などをも殺すことになる。やがて「キラ」と呼ばれるようになるこの殺戮者にたいする世論の評価は割れ、はたせるかな、救済者キラを崇拝するカルト集団が現れる。すでに見た二作品の特徴とくらべれば、暴力が死神という外部から与えられる点、そして主人公のもちいる暴力の加害性が前景化する点が共通しているのだが、『DEATH NOTE』においては、これらが最終的に、暴力についての倫理的判断という問題を読者へと投げかえす役割をはたすことになる。順に見てゆこう。

 まず『GANTZ』と比較すれば、玄野はバトルに強制参加させられていたのにたいして、月は使わなくてもよい暴力を積極的に行使する点がおおきく異なる(宇野のいう決断主義)。玄野は一種の被害者であるがゆえに彼の加害性は問題になりにくかったのと対照的に、月の場合は、自由意志にもとづいてノートを兵器化するうえに、すでに述べた「やりすぎ」ぶりのため、読者は彼の加害性を意識せざるをえない。だがここで問題を複雑化するのは、月にとっての敵は、暴力の根源たる死神ではなく、人間界の「悪」だという構造である。この一点において彼の加害性は、一挙に善へと反転しうる倫理的な強みを秘めている。じっさい、キラの存在はあたかも原子力のように抑止力として機能し、世界の犯罪数は激減することになる。彼は物語の最後で死ぬのだが、しかし、このマンガはキラを神として崇める人々の巡礼によって閉じられており、そこで彼はまさしく「新世界の神」になりおおせていると言える。玄野が凡人からヒーローに成長するのにたいして、月はエリートから神へと飛翔するのだ。また、『GANTZ』における「救済や再生」は、退屈からの暴力による脱却であり、読者もまた主人公に同一化することによってそのカタルシスを享受することができた。だが、『DEATH NOTE』で月を興奮させるのは、暴力をつうじたリアルな身体性の回帰ではなく、生殺与奪権を手中に収めることの全能感である。玄野は「新世界の神」などまったく目指さないし、月は「悪人」を派手に殺害することになど一切興味をもたない(じっさい彼はほとんどの人物を心臓麻痺で死に至らしめる)。そこで読者は、月に同一化するよりは、むしろ彼を評価する立場に置かれることになるだろう。リュークが落とすノートは、月個人を退屈な日常から救うだけではない。それは読者が、月に想像的に同一化することからくる満足感によってではなく、月の暴力を観客として目撃することで倫理的に救われてしまうという事態をあかるみにだすのだ。かくして月という新世界の神に祈りを捧げる『DEATH NOTE』の最後の場面は、世界を救済し再生するこの暴力は善か悪か? という倫理的判断を読者に問う。キラを崇拝する巡礼者たちの姿を、月の魅力に支えられたこのマンガを読了したわれわれ読者と重ねてみなくてはならないだろう。

 つぎに『進撃』と比較してみよう。この作品では、暴力の加害性と被害性あるいは善悪が決定不可能であることに、主人公のエレンたちが悩まされるのだった。それにたいして、月はみずからの暴力の加害性を倫理的に反省することは一切ない。もちろん彼は、自分の都合と独断で罪なき者を殺めることの問題は理解している。それでもなお彼が非道な行動に倫理的に悩むことがないのは、いわば彼の暴力が「悪の成敗」というメタレヴェルの善なるテロスによって承認されているからなのだ。ここで、『GANTZ』などではこの次元に原子力アメリカ)が措定されていたことを思いだそう。これとの比較であきらかになるのは、暴力の加害性がもつ罪を帳消しにするこのメタレヴェルの審級を、月は自分自身で発明してしまうということである。彼は一部の人々に神のように見えるだけでなく、じっさいに神のように思考しふるまうのだ。かくして『進撃』で主人公が直面していた倫理的な問いは、『DEATH NOTE』において、世間に、そして読者へと転移することになる。ここで見逃してはいけないのは、現実の読者にとって月が人気なのは部分的には彼がイケメンだからなのだが、彼の顔を知らない作中の世間は、ほとんど純粋に、彼のふるう暴力は善であるという倫理的価値判断のみにもとづいて彼を支持しているという事実だ。そこで暴力の善悪は、敵と味方のあいだで脱構築されることによってではなく、支持者と非支持者のあいだで対陣しつづけることによって決定不可能となっている。『DEATH NOTE』は、グロテスクな暴力表現や身体性の回帰によらずに、暴力の倫理面――月は犯罪者か救済者か?――を読者に問うという思弁的なアプローチで成功した、暴力モノの特異な例だと言える。

 時系列的には逆行するかたちになったが、暴力モノの戦端をひらいた99年の『バトル・ロワイアル』に進もう。この物語の大枠は、中学三年の主人公・七原秋也のクラスが修学旅行中にバスごと拉致されたのち、香川県に位置する架空の孤島で武器を支給され、残り一名になるまでクラスメイト同士で殺し合うバトル・ロイヤルに強制参加させられる、という設定である。舞台は1997年の日本なのだが、序盤でその国名は「日本」ではなく「大東亜共和国」であることが明かされる。このデス・ゲームは「六十八番プログラム」と通称され、「政府監修のコンパクト百科事典」によれば、「わが国専守防衛陸軍が防衛上の必要から行っている戦闘シミュレーション」であり、1947年に第一回が開催されている。その施行への反対運動にたいして当時の総統が行った「四月演説」は、「中学一年の教科書」に以下のように記述されている――

 

「革命と建設に邁進する親愛なる同志人民の皆さん。[…]わが共和国を脅かさんとする恥知らずな帝国主義の輩が未だ世界に群れをなしています。彼らは本来我々の同志となるはずだったそれぞれの国家人民を搾取し、騙し、自らの帝国主義の尖兵として洗脳し、ほしいままに操っています。[…]さて、〝六十八番プログラム〟は、そうした情勢下にあるわが国には、ぜひとも必要な実験であります。確かに、十五歳のうら若い命が幾千幾万と散ってゆくことについては、私自身も血涙をしぼらずにはおられません。しかし、彼らの命がこの瑞穂の国、我ら民族の独立を守るため役立つならば、彼らの失われた血は、肉は、神の御世により今に伝えられましたる美しきわが郷土に同化し、未来永劫、生き続けるとは言えないでしょうか。(拍手、歓声の渦。一分間中断)ご存じの通りわが共和国には徴兵制がありません。[…]プログラムを、一種の、そしてわが国唯一の徴兵制と考えていただきたい。」

 

このディストピア状況がまるきり戦時日本のパロディであることがわかるだろう。「徴兵」の比喩はいわばユーフェミズムであり、「うら若い命が幾千幾万と散ってゆく」プログラムへの徴用とは、すでに実戦への学徒の動員にひとしい。本作品では『GANTZ』と同様、戦闘に強制参加させられる被害者たちについて暴力の善悪は問えないが、ここで暴力の根源は超越的・抽象的な外部へと転嫁されることなく、そこには日本が、日本の歴史こそが置かれている。発表当時に本作が見舞われた、現在では時代を感じさせる批判と拒否反応――いかにこの作品が暴力表象の常識を変えたかが窺える――は、97年の酒鬼薔薇聖斗事件や、98年の「キレる」という言葉の流行などに象徴されるような、未成年からの不可解な暴力の噴出にたいする恐怖だけが理由ではない。『バトル・ロワイアル』が真に触れたタブーは、1990年代という時代背景のもと、戦時日本の軍国主義全体主義という負の記憶を、圧倒的な規模の大衆の意識に回帰させることであったのだ。かくして七原は作品中、彼らをこの状況に追い込んだシステムたる国家をくりかえし批判しつづけることになる。これは通常の暴力モノには見られない特徴である。

 それだけではない。引用における「帝国主義」とはアメリカのことなのだが、彼らが「搾取し、騙し」、「洗脳し」ているところの、「本来我々の同志となるはずだった」「国家人民」とは、作中でおもに朝鮮民族のことを指しているのだ。戦争のアレゴリーとしての暴力を表象するさい、日本を被害者として描けばアメリカが加害者として浮上してきたのにたいして、日本を加害者として描くとき、その照準先は、アジアであるほかない。さらに、それと不可分なのが、この侵略の準備としての「徴兵制」にたいする国民の熱狂である。演説が日本の侵略戦争の挫折にたいするフラストレーションを煽っていることからわかるように、ここでプログラムは、日本の暴力リビドーの備給先をアジアから国内の若者へと転移させる装置となっている。つまり本作にあって、救済や再生としての暴力は個人ではなく国家・国民によって欲望されており、プログラムはその代替的なはけ口にすぎない。本来の標的は他国なのであり、すなわちここで希求されている暴力とは、たんなる暴力ではなく、日本が国家として他者にふるう加害的暴力にほかならない。大東亜共和国を、この作品に熱狂した現実の日本の鏡像として読まなくてはならないだろう。この作品は、日本の集合的無意識に横たわる救済や再生としての加害的暴力への強烈な欲望を衆目に晒したのだ。暴力モノの流行をさきがけた『バトル・ロワイアル』は、あくまで過剰な暴力表象をエンターテイメントとして提出しながらも、日本における暴力の加害性と被害性のねじれを大衆規模であかるみにだすことに成功した点において、現在においてもきわだった作品である。

 

3『ゴジラ』から『シン・ゴジラ』の成熟へ

 

 さいごに、多くの読者にとっていまだ記憶にあたらしいであろう『シン・ゴジラ』を、初代『ゴジラ』と比較するかたちで論じたい。冒頭で素描したように、まずゴジラは戦争=アメリカ=原子力アレゴリーとして読解可能であり、それは大戦における日本を被害者として表象する傾向にあるのだった。その基本的な図式に鑑みて、『シン・ゴジラ』にはいくつかの興味ぶかい要素をただちに見いだすことができる。まずゴジラが3.11のアレゴリーであるという、日本人には一目瞭然の新要素であり、自然災害と人為災害の複合体としてのフクシマは、ゴジラが含意する日本の加害性と被害性を複雑化するだろう。つぎに自衛隊武力行使にたいする首相のためらいが、軍事研究家の小泉悠が書いているように、「やや執拗なほど」強調されていることも注目される。これは加害者化への恐れを強調することによって、逆説的に日本の軍事力の加害性という抑圧された歴史の存在を印象づける演出だと言える。だが本稿の文脈でなによりも重要なのは、ゴジラ問題の解決が日米共同で行われることであり、そして東京への核爆弾の投下が回避されることである。これまでの議論の流れからあきらかだろうが、前者はアメリカを加害者として措定することを不可能にし、後者は原爆を口実に日本を被害者として認定することを不可能にする。この点において、大戦を反復することで戦後日本のイデオロギーを強化していた初代『ゴジラ』のプロットを、この最新作は批評的に塗り替える可能性を秘めている。そこで問題になるのは、アメリカでないならゴジラはなんなのか、そして原爆でないなら解決策はなんなのか、この二点になるだろう。

 そこでつぎに、『ゴジラ』では水爆実験だったゴジラ出現の原因が『シン・ゴジラ』では不明であるという変更点に注目してみよう。ゴジラはなぜ現れ、日本を襲うのか? ふたたび大塚英志によれば、彼は「ゴジラ・ネグレクト説」を提唱しており、最新作のゴジラ記紀で描かれる蛭子であって、この流された異形の貴種が目指すのは、父母の住む皇居への帰還であるという。蛭子とはズレてしまうが、ゴジラを退治するのが「ヤシオリ作戦」であることから、この作品の記紀への言及はあきらかであり、また東京駅周辺の最終局面においてゴジラがもがきつつ目指しているのが皇居であることも瞭然である。この天皇という隠れたテーマは、ゴジラ凍結後に北の丸公園からゴジラの立つ東京駅を望むとき、主人公の矢口とゴジラのあいだに横たわる御苑の森林が映される場面ではっきりする[図4]。この一連のシークエンスにおいては、まず矢口とともにゴジラを見つめていたアメリカ大統領特使であるカヨコ・アン・パタースンが退場し、つぎにゴジラのほうに向きなおった矢口が「事態の収束にはまだほど遠い」という映画最後の台詞を吐くと、カメラはゴジラの身体にフォーカスし、地獄で苦しむ人間たちのような造形をもつ尻尾の先端を映して幕となる[図5]。かくして『シン・ゴジラ』の最終的なイメージは、アメリカの退場という前提のもとで、矢口、皇居、そして人間の塊であるらしいゴジラ、という三幅対であることになる。はたして、原因不明のまま日本を破壊し、アメリカが去った東京において皇居を睥睨しつづけるこの「収束」せざるリヴァイアサンを、われわれは日本の神話においてネグレクトされた奇形児であると読解することで満足してよいのだろうか?

 

図4(上)・図5(下) 庵野秀明総監督『シン・ゴジラ』(2016)

 すでに引用した川本をはじめ、初代『ゴジラ』批評には、皇居を破壊できずに海へ還ってゆくゴジラを太平洋戦争の死者として読みとるものが複数存在する。これは内容的には異なるが、本稿の観点からは大塚のネグレクト説と同一の問題を抱えているといえる。なぜならば、もちろん、太平洋戦争の戦死者もネグレクトされた蛭子も、日本人被害者であるという点で共通しているからだ。だが本稿は日本の加害者性を剔抉することが目的なのだった。であるならば、天皇にたいするゴジラの敵意に、そしてゴジラ出現の理由の説明不可能性に、さらにゴジラが日本の中心に佇立しつづけるという結末に、われわれが見なくてはならないのは、日本が無意識の領域へと抑圧してきたみずからの加害性のリマインダにほかならない。ゴジラはあきらかに怒っているではないか。なぜこれが日本のふるった暴力にたいする他者からのリベンジである可能性をまず考慮しないのか? 太平洋から上陸するゴジラを第二次大戦におけるアジアの被害者の亡霊であるとまで主張すれば強弁に響くだろうが、すくなくとも従来のゴジラ批評からは、日本の加害性にたいするリアクションとして、被害者たる他者が応答責任を迫って日本に上陸しているという読解可能性は、不可解なほど抜け落ちている。冒頭で本稿は暴力の加害面に強くフォーカスすると述べたが、その効用はこうした読解の不均衡を問いただすことを可能にする点にある。

 言及したばかりの大塚論文は、天皇家の避難などをまったく描かないこの映画の不自然さについて、そもそも設定上この世界には天皇家が存在しないのだと仮定しており、父殺し/胎内回帰を拒否されて立ち尽くすゴジラと、映画そのものによる天皇制の断念こそが『シン・ゴジラ』の描く日本の成熟であると結論している。いまわれわれはこの成熟という戦後日本論における重要テーマの意味をも、大塚とは別の視点から、この映画に読みとることができるだろう。アメリカ率いる多国籍軍による「熱核攻撃」での駆逐と、ヤシオリ作戦での凍結という対照性はここで重要である。福島亮太は、核兵器で東京をまっさらにして戦後日本を安易にリセットするのではなく、凍結によって歴史を保存するこの結末を、「核を落とさせない倫理」として評価している。だがすでに触れたように、第一にこの核の拒否における倫理は、アメリカを加害者として措定不可能にするという点において、第二次大戦とは別の結論を導くカタストロフィとしてゴジラを描きなおしたことに求められねばならず、したがって第二に、そこで保存される重要な存在は、東京よりもゴジラという他者のほうである。映画では描かれない復興期において、矢口たちはゴジラが人間の集合体であることを知るにちがいない。その結果として彼らは、ゴジラが日本を攻撃したことの意味を、その動機を、いまだ東京に屹立する大怪獣の視線を浴びつつ、考えつづけることを余儀なくされるだろう。ゴジラとは誰なのか――。矢口はある場面で次のように言う。「牧教授はこの事態を予測していた気がする。彼は荒ぶる神の力を解放して、試したかったのかもしれない。人間を、この国を、日本人を。核兵器の使用も含めて、どうするのか好きにしてみろと」。だがゴジラが凍結したいま日本人が試されているのは、核兵器の使用の是非ではない。そこで真に試されるのは、ゴジラの暴力を、日本人みずからがふるった加害的暴力への応答として反省的に読みかえる成熟へと踏みだす勇気である。

 

4「メシウマだぜ!」、あるいは加害性とトラウマの相対化

 

 冒頭で述べたように、本稿は「戦後日本のサブカルチャーにおける加害としての暴力」という巨大な問題意識のもと、ここ20年ほどで流行したごく一部の作品分析をつうじて、その一端を素描しえたにすぎない。これまでの議論が、戦後の暴力表象における加害性と被害性、アジアとアメリカ、第二次世界大戦の遺産とポスト冷戦、核表象、サブカルチャー集合的無意識の関係といった諸問題の研究にわずかでも寄与することを願いつつ、最後に、くりかえし言及してきた夏目の「救済や再生としての暴力」という問題に立ちかえりたい。われわれは、すくなくともフィクションにおける表象としての過剰な暴力を希求していることは明白であり、その消費規模は、たとえばスプラッタ映画のような「特殊」な嗜好として理解するには、あまりに全面化している。おそろしいことだが、9.11を顕著な例として、メディアをつうじた現実世界におけるカタストロフィにたいしても同様に対峙することができてしまった覚えが誰しもあるだろう。『GANTZ』に、破壊される東京を目の当たりにした典型的なオタクファッションの男が、哄笑しながら「リセットだぉ!」「メシウマだぜ!」と叫ぶ場面があるが、これをたんなる不謹慎と退けるよりも、戯画化された自分の姿を見て戸惑うべきである。われわれは間違いなく、巨大な暴力を、ディザスターを、そしてことによると戦争さえをも、欲望してしまっているのかもしれないのだ。ではどうすればいいのか?

 美術史家のハル・フォスターは、80年代後半から90年代にかけて美術界においてグロテスクな身体を表象する傾向が顕著になったという本稿のトピックの背景をなす事象について、それを世界秩序の崩壊の感覚への応答であると論じている。これを精神分析的な語彙で言い換えれば、弱体化した象徴界のリプレゼンテーションが無意味化し、現実界=トラウマに直接触れようとするアブジェクト・アートが擡頭する、ということになる。フォスターによれば、これ以降、トラウマ概念は対極的なふたつの役割を果たしており、いっぽうでそれはむきだしの内蔵や死体、あるいは死そのものといったトラウマティックな対象じたいへの惑溺をさそい、たほうでは、同一のトラウマを共有する人々の集合的アイデンティティの強化に役立っているという。これは本稿で扱った対象では、サブカル作品において救済や再生として機能する過剰な暴力(現実界)の蠱惑的な説得力と、原爆被害などのトラウマを核とした日本人というアイデンティティの形成(象徴界の設立)とに、それぞれ対応している。トラウマという観点からみたとき、暴力の行使とネオナショナリズムはすぐれて現代的な問題の表裏をなしており、その両面ともが、手っ取り早い解決の手段として、今後もしばらく人々を惹きつけつづけるだろうと思われる。このトラウマというコインの額面は、戦争という名の救済・再生と交換可能であると考えてもよさそうだ。

 この議論にたいする本稿の貢献は、加害と被害という観点からなされなくてはならない。個人や集団がトラウマを抱えることじたいはもちろん非難されるべきものではないが、それはときに美学化され、政治の道具となる。ヒロシマも9.11もそのように利用されたことをわれわれは知っている。そのときトラウマとはすなわち、被害者意識の言説にほかならない。そうしたイデオロギーにぶつけるべき有効な対抗言説のひとつは、「誰もが被害者であり加害者でもある」といった安易な一般化ではなくて、被害者意識の内部に横たわる加害性の剔抉という、本稿がサブカル作品の分析をつうじて行ってきた戦略であるように思われる。言い換えれば、現在みずからが抱く被害者意識、その深部から、みずからが過去にふるった加害的暴力という不気味な歴史的出自を回帰させようとする批判的な試みである。加害性へのフォーカスによって被害者意識に亀裂を生じさせるこの手続きは、被害性の周囲に蝟集するナショナリズムを分断しつつ、それぞれのトラウマを相対化するだろう。そのときトラウマは排他的なアイデンティティの核としての機能を停止し、同時に加害性は、個々のトラウマを対話可能性へとひらく、新たな回路となるにちがいない。われわれは加害者のように見える敵の殲滅をむやみに目指すのではなく、いったん凍結して、その細部に宿る被害者たちと対峙しなくてはならない。暴力とはことなる手段による救済や再生は、その先にはじめて見えてくるだろう。

トップジャーナルの採用条件  日本の人文学の新時代にむけて

American Literature 誌に論文が採用された。Afro-Asian Antagonism and the Long Korean War というタイトルで、アメリカは朝鮮戦争を介して黒人とアジア人の人種対立を作り出した、と論じている。同誌はアメリカ文学研究におけるザ・トップジャーナルで、投稿された論文のほとんどを査読者にまわさず編集部でリジェクトする厳しさで知られている。査読に進むだけで Congratulations! と言われる媒体だ。

 

私はいまアメリカの大学で博士課程にいるのだが、この論文は博論の一部ではなく、留学先で書いた期末レポートを改稿したものである。私は博論に着手するまえに到達すべき実力の目標値を同誌からのアクセプトに設定していて、今回の論文は、そのトレーニングのために書いた習作の一本になる。

 

以下、採用された勢いで、今回のアクセプトに至った経緯を日記として残しておきたい。かなり私的な内容となるうえ、議論の内容や執筆の方法論について具体的なことは書けないのだが、海外誌への進出が徐々に進みつつある日本の英語文学研究コミュニティにとって、なにかしらの参考になる部分くらいはあるかもしれない。この日記で、ひとまず「海外誌」とか「トップジャーナル」といった語彙が日本の研究室での日常会話で口にされるような状況を作ることに少し貢献できればと思っている。

 

ちなみに、これを機に個人ホームページを公開したので、私の詳しいプロフィールに興味がある人はそちらをご覧いただきたい。現在執筆中の4冊の書籍プロジェクトの詳細や、今回の論文のアブストラクトも置いてある。院生・学者むけにオンラインで論文添削などの個別指導サービスも提供しているので、そちらも興味があればCONTACTから連絡されたい。

 

kodaiabe.com

 

□ □ □ □ □ □ □

 

私が米国のトップジャーナルからの出版を視野に入れるようになったのは留学の3年目からだった。

 

その時点で私は当該分野において日本国内の二大学会である日本英文学会と日本アメリカ文学会の両方から論文で新人賞を受賞しており、さらにアジアン・アメリカン研究では最良の媒体である Journal of Asian American Studies にも業績を保持していた。これでひとまず日本国内のジョブマーケット対策は済んだので(就職できるかどうかはともかく)、私の研究はようやくアメリカに100%フォーカスできる状態になった。

 

そのとき私にはいくつかの航路が考えられたが、ひとまずこっちでの就職事情を探るべく、アメリカのジョブマーケットについて調査することにした。そこで行ったのは、米国内のTOP100校において、私の研究にかかわる分野(英文科、比較文学科、アジア科など)の若いファカルティをリストアップし、彼らがどこで何年にPhDを取って、採用のタイミングでどのような業績を保持していたか、その統計を取る作業である。ちなみにCVのリテラシーは、院生が身に付けるべき最重要スキルのひとつだ。学者なら、業績リストを「読める」ようになる必要がある。

 

統計の結果、私はこのままだと自分‪がアメリカの研究大学に就職できる可能性は「ほぼ皆無」であると判断した。上述のJAASは就活に使えるランクのジャーナルだが、いかんせん出身大学が弱すぎる。こうして同時に、私に残されたやるべきことは、もはや米国の狭義の「トップジャーナル」に論文を載せることしかない、ということもわかった。それ以外の業績を量的に増やしたところで、もう私の市場価値は変わらないのだ。そのことが判明した瞬間、私はみずからに日本語での執筆を禁じ、ツイッターもやめた。兎にも角にもアメリカのアカデミアで、いちプレイヤーとして認知されなくては、なにひとつ始まらない。

 

□ □ □ □ □ □ □

 

ここでいう「トップジャーナル」に該当する媒体は、ごく数誌しかない。いくつかの理由から、私は American Literature 誌にターゲットを絞ることにした。

 

それからAL掲載論文を徹底的に解析する日々が始まった。これまでの自分の書き方では、いくらその「クオリティ」を上げたところでトップジャーナルからの採用はありえないとわかっていたし、あるレベルの文章を自分で書けないということはそれを読めてもいないということだと私は考えるので、もう過去の書法はおろか読み方もすべて捨て、まったく新しい営為をこれから学ぶのだという気持ちで、厳選したいくつかの論文を虚心坦懐にトレースした。英語に "Leave no stone unturned" という表現があるが、まさしく "Leave no sentence unturned" という感じで、ふだん何気なく読んでいるセンテンスの裏側に自分が見えていない何かが隠されているのではないかと疑いながら、1本の短い論文を「読む」のに何日もかけ、その観察からデータに変換できるものすべてを数値化し、言語化し、基準を作っていった。

 

そして自分の書く文章がその基準から外れているとき、それは自分が「間違っている」のだ、と考えるようにした。ここで「自分の感覚」などを信じると、けっきょく以前と似たような文章を書いてしまう。だからデータを取って、それに脳死状態で従うのだ。これを続けているうちに、徐々にトップレベルの論文の見え方が変わってくるのがわかり、私は自分の読解のピントが致命的にズレていたことに気づきはじめた。1本を深く読むことは100本を読むよりも大きな効果を生むことがある。その深みで得られた高解像度の理解力は、以後どんな文章を読むときにも発揮される。これを私は昔から「深い一点を作る」と呼んでいる。あらゆる分野に応用できる勉強方法だ。

 

かくして私は「トップジャーナルの採用条件」らしき一群のルールをまとめた。私のいう狭義のトップジャーナルには、「良いのが書けたので出してみました」的なノリで出してもまず採用はありえない。そこには極めて特殊な暗黙のコードが存在しており、それを満たさないかぎりは相手にもされないのである。そして私は、これまでの思考回路やスタイルに流されず、この「条件」の範囲内にプロジェクトを立案し、そこからはみ出さないように慎重にセンテンスを書き継いでいった。

 

その執筆は、これまで書いた論文のじつに約10倍の期間を要した。それはきわめてスリリングな作業だった。これまでの自分の文章とは完全に異質であることが、1000語も書かないうちに手にとるようにわかったからだ‪──‬そう、それはまさしく American Literature 誌に載っている論文のようだった。イントロを書き終えないうちに、私はこれが特大のブレイクスルーであることを確信していた。それはアメリカでの孤独な留学生活で経験した、二度目の凄まじい高揚感だった。

 

そして論文はぶじ採用された。

 

□ □ □ □ □ □ □

 

私は論文が書けるようになるルートはふたつあると思っている。ひとつは自分の人生とかかわるような問いやテーマを深く深く追求し、その先に論文という表現形態が開けてくるようなパターン。もうひとつは、私はこっちなのだが、論文執筆を仕事として捉え、職人のように研究の諸技術を磨いてゆくパターン。どちらが良い悪いではないが、前者は専門家タイプで、後者は何でも屋タイプになりやすい。私はいちおうアメリカの戦争を専門としてはいるが、朝鮮戦争論文をトップジャーナルに載せたとはいえ、朝鮮戦争について世界トップクラスの知識を持っているわけではまったくない。私はただ、優れた論文を書くために必要十分な参照作業を遂行できるのだ。それは非常に抽象的な技能であって、いわば特定のスポーツをやらずに運動神経そのものを鍛えたようなものである。私は意識的に文学以外の研究も参照しながらモデルを構築したので、これは人文学という学問領域のかなり広範囲にわたって適用可能な技術だと思われる。直近の業績であるメディア研究の一流誌 Discourse からのアクセプトが、その証左の一端である。

 

人文学で研究者としての実力を伸ばすために何よりも重要だと私が思うのは、「自分は読めている」という自負をいかにラディカルに疑い続けられるかである。ある議論を自分が本当に読めているかどうか、それはあなたの論文が同等のレベルの媒体に相手にしてもらえるかどうかで測定できる──というか、それ以外に自分の理解力を客観的に測定する方法を私は思いつかない。あなたの執筆力の限界は、あなたの読解力の限界と同じなのである。自分の実力は、書くことではじめて明らかになる。だから査読が重要なのだ。

 

じっさい、あなたは世界トップクラスとされる議論を読んで「なにがそんなすごいの?」とか思った経験がないだろうか。もしあるなら、それは一種のチャンスである。そのとき、世界最先端の研究が実際に大したことないか、あなたがうまく読めていないか、そのいずれかなのだ。はたしてどっちなのか? もういちど言おう、ひとはどんな論文でも、自分に読める範囲で読めてしまう。もうすこし核心に迫れば、ひとは自分が書くときに動員できる(つまり十全にインストールされている)思考のフレームワークしか、読むときにも使うことができない。だから読解には盲点がある。あるかもしれないということを恐れなくてはならないのだ。

 

f:id:jeffrey-kd:20211019122444j:plain

「それがココの最低条件…」
冨樫義博HUNTER×HUNTER』第6巻

 

 

□ □ □ □ □ □ □

 

今回の手応えから判断して、教育カリキュラムさえ整えることができれば、将来的に日本の人文学研究者のもっとも優秀な層をこのレベルに引き上げることは可能であるように思われる。いま日本の英語文学研究はアメリカに30年ほど遅れているが、それはもちろん日本人がみんなバカだからそうなったのではない。導入がうまくいっていないだけである。いったん雰囲気と方法論さえ浸透してしまえば、「博論から1章は米国のトップジャーナルに採用されて、一流UPから書籍化がデフォ」という未来の想像も不可能ではない。そのためにまずは、日本人の院生の最高到達点は世界トップジャーナルへの掲載である、ということをコミュニティの想像力の地平内に呼び込む必要がある。この文章をここまで読んでくれた読者は、少なくともそのことは覚えて帰ってほしい。

 

いやそもそもアメリカなんてどうでもええわ、と思うなら、それはそれで構わないと私は思う。そういう人がいてもいい。おそらくいま、私の周辺のディシプリンは保守と革新の大きな岐路に差し掛かっていて、これは個々人がどっちに行きたいかという問題だ。私は今後、これまで編み出してきたトレーニング方法と執筆テクニックを紹介するというかたちで、日本の人文学にひとつのムーヴメントを引き起こしたいと目論んでいる。あなたは世界から取り残された日本人で満足か? どうせ研究者としての人生を歩むんだったら、世界の最先端にリアルに食い込んでみたいと思わねーか?

 

最後にダメ押しで挑発しておこう。過去数年をふりかえって、あなたは自分の学者としての実力を根本から見直すよう要求するような鋭い批判にさらされて手が震えるような経験をした記憶があるだろうか。あなたがまだ修行中の院生ならあるかもしれない。だが、立場を得るにつれ、年を取るにつれ、成果を積むにつれ、自分をディスってくれる貴重な声は減ってゆく。それでご満悦なら‪‬構わないが、もしプロの研究者としてそんな学芸会じみた状況を軽蔑できるプライドがあるのなら、それを打破するための第一歩を踏み出すのは簡単である。海外のトップジャーナルの世界に、いますぐ無課金プレイヤーとして飛び込めばいいのだ。そこで門前払いを食らう屈辱をきちんと味わうところから、日本の人文学の新時代は始まる。

 

さあ、つぎはあなたの番だ。

 



 

パラグラフ写経のすすめ 文体を入れ替える

このエントリは、すでに英語でそれなりの量の文章を書いてきたものの、現状の作文力に不満を抱いており、どうにか改善したいと感じている──おもにそのような書き手にむけて書かれている。

 

わたし自身は人文系の大学院生なのだが、人文学は文章を読んでもらうことで読者を説得していく分野なので、その評価において文章力が大きな比重を占める。したがって外国語で書く場合、語学力がダイレクトに評価に影響してくる、ということだ。以下の文章は、そういった分野の執筆にたずさわる書き手にとりわけ役立つ内容になると思う。英語論文を例にして話をすすめるが、英語以外・論文以外の書き物にも応用可能である。

 

また以前に、初心者から初級者へ、そしておそらく中級レベルの後半くらいまで進むための方法論を紹介するエントリ「文体を作ろう!」を書いているので、そちらも参考にしていただきたい。今回はその続編、上級編である。

 

ところで上記のエントリの最後でわたしは、英語のフレーズを採集して暗記せよ、と書いた。今回の内容もそれと地続きである。その方法は単純で、ネイティヴの英語を読みながら、良いと思ったフレーズを書き写して暗記する、というものだ。

 

わたしはこれで3000用例くらい集めて暗記して成長の手応えを感じられたのだが、同時に大きな不満と不安が残った。そのうえ、どうもそれは、もはや数の問題ではないように思われた。語彙レベル・表現レベルでは大きく成長したものの、構造レベル・文体レベルで自分の文章は過去のままであるように思われたのだ。ほんとうにそのような区分が可能なのかどうか不明だが、まぁともかく、そんな不満があった。

 

そのような不満を抱えながら、ここ数年、ずっと気になっていた勉強法がある。写経である。英文をとにかく書き写すというものだ。

 

わたしは過去これに何度か挑戦してみた経験があるのだが、長続きしなかった。もちろん写経はすぐに効果が現れるタイプの勉強法でないことは明白だが、しかしそれでも、写経の作業をやっている最中、それが自分の目指す英作文力の向上というゴールに繋がっている感覚がまったく得られなかったのだった。

 

余談だが勉強においては、継続や忍耐と同じくらい、「これ効いてねぇな」という空回りへの感度と見切る決断力も重要であると思う。ともあれ、わたしは自分には写経は使いこなせないと判断した。

 

しかしここにはやはり、なにかしらのヒントがあるように思われた。写経という勉強法はコンセプトとしては、他人の文章をそのままトレースすることで、語彙や表現というよりも文体のリズムのようなものを体感・体得するということに主眼があるのだと思われる。それはわたしの目的に近かった。しかし写経という行為のうちにその感覚が得られず、しばらく方法論を模索していたのであった。

 

そこで辿り着いたのが、1パラグラフだけ写経する、という勉強方法である。以下で提案したいのはこの方法論、名付けてパラグラフ写経だ。

 

では順を追って説明してゆこう。

 

これを行うには、まず信頼できるネイティヴの書き手を見つける必要がある。その書き手は、8000から10000words規模の論文を、あなたの狙うゾーンの媒体に、すくなくとも3本以上書いている書き手が望ましい。単著でもOKなのだが、飽きてしまうかもしれないので、できればネタが異なる複数の論文のほうが良いと思う。

 

また、以下の内容を読んでいくうちにわかるはずだが、この方法は内容の深い精読も同時に行うことができるので、もし英語表現だけでなく内容的にもエミュレートしたいと思える文章を書いている書き手に出会えたら最高である。その意味でも単発の論文でやったほうが、それを複数繰り返すことで1万語の論文のストラクチャなどを俯瞰できる視力が身につくので、オススメである。

 

それから、ちょっと余計なお世話だが、英語も研究の方法も刻々と変化しているうえ、そもそも英語圏ではここ20年の研究に接続できないと論文の出版は不可能なので、とくに海外で活躍したいと考えている若手には、できれば2010年以降に出版された若くて活きの良い最先端の文章をディグることを推奨したい。あなたは自分の分野でいま目立っている30代の研究者を何人挙げることができるだろうか?

 

具体的な作業に移ろう。文章を集めたら、読む論文の全パラグラフに冒頭から番号をふる(わたしの分野では30パラグラフ前後が相場である)。つづいて、ひとつのパラグラフをそのままPCに書き写す。つまり写経である。そのとき、センテンスごとに1行あけながら、パラグラフを文にバラすようにして写してゆく。ちなみにわたしは音読しながら書き写している。

 

パラグラフを書き写したら、もういちど最初から読み直す。そのとき、1文1文を吟味しながら、「理解できるか」ではなく、「こういう内容のことが言いたいときに自分のアタマからこの英語表現が出てくるか」という視点で読む。読めるかどうかではなく、書けるかどうかで読んでいくのだ。

 

具体的には、この単語や表現を知っているか、ではなく、この名詞にこの形容詞を組み合せて使えるか、この名詞とこの名詞のこういう関係を記述したいときにこの動詞を即座に使えるか、この副詞・接続詞を文頭ではなくこの箇所での挿入で使えるか、ここの分詞表現は自分なら関係詞節にしてしまうのではないか、自分ではここで文を終わらせて2文に分けてしまうのではないか、などといった視点で読む。そして、気になったものすべてをハイライトする

 

読み方について理解してもらうために、抽象的な例を考えてみたい。あなたが手にペンを持っているとしよう。それを表現するとき、あなたの脳裏に浮かぶ英文は I have a pen である。だが、目の前の文章には A pen is in my hand という文でそれが表現されている。むろんあなたはそれを理解できるし、作文できないわけでもないが、しかし、あなたの脳内にある英語の回路では「手にペンを持っている」というアイディアを英文化するとき A pen is in my hand に自力では到達できないかもしれない──このような視点で読むといい。この省察過程にこそ、文体レベルでの介入の契機は潜んでいる。

 

さて、こうするとたぶん、かなりの割合がハイライトされることだろう。ときには1文まるごとという場合もあるかもしれない。それでよい。逆にマークされなかった箇所は、あなたがそのことを言いたいときに頭からすんなり出てくる範囲内の表現だということになる。

 

これをぜんぶ覚えるのだ。

 

マジかよと感じるかもしれない。だから1日1段落なのである。ここではパラグラフは300words程度だと想定しているが(これが人文学の平均値である)、分量は適当に調整してもらえればいい。ちなみにこの分量だと、書き写してとりあえず覚えるという作業で、だいたい30分かからないくらいである。案外やってみると大したことはないものだ。

 

これを続けているうちに、はじめは3語・5語ハイライトとかだったのが、20パラくらいまでくるとセンテンスまるごと暗記がデフォという感じにエスカレートしてくると思う。やはりそれでよい。ケチらずに長いセンテンスを毎日ガンガン覚えまくろう。

 

この勉強には、さらにいくつかの段階がある。

 

2周目でハイライトしたら、3周目でハイライト内のとくに覚えたい表現をさらに差別化する(わたしは太字にしている)。それでどうするかというと、ハイライトされているがボールドではない、という箇所から、itとかtheとかではなく、他のセンテンスに含まれている可能性が低い単語を選んで書き出すのだ。

 

どういうことかというと、いまテキトーに目の前にある本の最初のセンテンスで例を作ってみると、

 

This book presents a series of studies in the aesthetics of negative emotions, examining their politically ambiguous work in a range of cultural artifacts produced in what T. W. Adorno calls the fully “administered world” of late modernity.

 

これをまるごとハイライトしていると仮定しよう(こんな文はハイライトするしかねえ)。そして以上の2箇所を太字にしたとする。そうしたら太字でない箇所から目立つ単語を一つ選ぶわけだ。この場合はとりあえず T. W. Adorno という固有名詞にしておく。

 

それをどうするか。その単語をクイズの「問い」にするのである。

 

これは Sianne Ngai の Ugly Feelings という本から採られている。問題作成者であるあなたはそのことを把握している。そして Adorno という単語を見れば、上に引用した文をハイライトしたな、ということは、あなたにはわかる。それで Adorno 一語だけを頼りに全文を思い出す、という順序で「問題を解く」、というわけだ。

 

これをパラグラフでやると、

 

Para 1

 Adorno

 単語2

 単語3

 単語4

Para 2

 単語1

 単語2

 

こんな感じの問題集ができあがる。これで日々復習するのだ。問題形式にしたほうが暗記は捗る、というのは暗記界の常識である。もちろん「問題」は単語でなくても、各自で工夫してやってもらえればよい。

 

これはどのようなツールを使ってもいいのだが、わたしは Workflowy というアプリを使っている。これの良いところは、パラグラフと単語(問い)で上記のように階層化できるだけでなく、答えのセンテンスを全文コピペしたうえで隠しておいてわからなかったら開く、という操作がめっちゃやりやすいところである。赤シート的な感じで。Workflowy の使用法としては無粋だと思うが、あまりにも相性がいいのでオススメしておきたい。

 

量について。ちょっと単純計算してみれば、だいたい論文は30パラグラフなので1ヶ月で論文が1本読めて、たぶん200用例くらい採集することになり、これを1年つづけると10本10万wordsを写経することになり、フレーズの量としては2000という計算になる。

 

4桁にびびってしまうかもしれないが、しかしちょっと考えればわかるように、あなたの英語力はもう100フレーズ覚えたくらいでは変えられない。語学において100という数字で成長が期待できるのは初心者だけである。もしかすると1000よりも前にブレイクスルーが起こるかもしれないが、とはいえ300や400ではやはり足りないので、半年つづけて1000、というのをひとまず目標ラインとして提案しておこう。

 

また、この勉強には英語力の増強にとどまらない効果があると述べたが、それについて。これだけひとりの著者の文体を大量に取り込むと、まちがいなく思考回路まで侵食されることになる。われわれの思考パターンは表現の限界に大きく規定されている。とりわけ外国語においてはそうである。つまり逆に言えば、英語の勉強で賢くなってしまうことが期待できるのであり、ひるがえっては、あなたの論文がショボいのは部分的に英語力のせいであるかもしれないということだ(たぶん間違いなくそうである)。

 

何人も選ぶより、内容面でも見習いたいと思えて、かつ大量に書いているような著者をひとり見つけることを推奨する理由はここにある。 2著者選んでそれぞれ半年1000フレーズずつとかやってみ?1年後すっげえぞ。ってことが想像できると思う。

 

パラグラフ写経のポイントは、フレーズ暗記と文体模写を組み合わせるという点にある。覚えたての項目を使うこと自体は難しくないので、フレーズ暗記の効果は断片的にはすぐに現れる。だが、それを短いフレーズからセンテンス単位に拡大し、なおかつそれをひとりの書き手のコーパスから集中的に大量に行うことで、バラバラの暗記がパラダイムのシフトに繋がっているという感覚を掴みやすい、というのがこの勉強法の真髄だ。

 

こうしてパラグラフ写経によって「精読」した論文をあらためて読み直すと、それはもうハンパない解像度とスピード感ですげーちゃんと理解することができる。そのリーディング感覚は、あたかも自分で書いた文書を読んでいるかのように無抵抗である(そう、あなたは書くように読んだのだった)。そうしてつぎつぎと論文を自家薬籠中のものとしてゆけば、あなたの執筆スタイルと読解力は、徐々に、しかし確実に、そしていつか劇的に変化するだろう。

 

もしあなたが現在の文章に──いや論文に──不満を抱いているのなら、このパラグラフ写経を根気よく続けてみてほしい。半年後、そして1年後に、あなたの英語はまったくの別物になっているだろう。それはつまり文体が入れ替わったのだ。

 

その入れ替わった文体であらたに論文を書き始めれば、自分の文章がかつては到達できないと思っていた著者のそれに見劣りしないことに、そしてその事実が第一段落を書いている時点で自分でも手に取るようにわかるという事実そのものに、あなたは驚かされることになるだろう。

 

あらたな文体で書かれる論文、それはあなたの思考をあらたな領域へと飛躍させずにはいないのだ。

アートとしての論文 人文系の院生が査読を通すためのドリル

0.Ars longa, vita brevis

 

本稿は、査読論文がなかなか書けずにいる人文系の大学院生に向けて書かれている。

 

日本の人文系の院生は研究職を目指している場合が多く、そのためには業績が必要になる。具体的には、諸学会が発行するジャーナルに学術論文を投稿して、査読と呼ばれる審査過程をクリアし、採用・出版にこぎつけなくてはならない。

 

わたしはまだ就活を経験していない院生だが、大学による公募要項を見るかぎり、業績は最低3本必要である。だから、博士号の取得を終えた時点で就活に移るとすると、博論のまえに3本の査読論文を書かなくてはならないことになる。……じつは実情はそうではないのだが、とりあえずこの前提で話を進めよう。

 

ところで以前、私は「文体を作ろう!」というエントリを書いたことがある。そこで紹介したのは、英作文の初級者から中級者に移行するための、そのためだけの、方法論だった。当時の私の英作文力は中の下だったが、初級から中級へのブレイクスルーを起こすための学習モデルを提示するのに、上級者である必要はない。

 

今回の事情もこれと似ている。授業や学会で何本か論文めいた文章を書いてはみたものの、有名な学会誌の査読になんて通りそうもない、これは通る/通らないだろうという基準さえない、ていうか全体的によくわからん、やばいかもしんない、そういった院生にむけて──つまり、つい数年前の、初級者の自分にむけて書かれている。

 

この文章で私が提供できると思うのは、日本の人文系の学生が、初級者から中級者にレベルアップするための、そのためだけの、方法論である。

 

うえで「実情はそうではない」と書いたが、じっさい就活時に査読論文が3本揃っているプレイヤーは稀であるらしい(だったら自分も書かなくてよくね?と思うならこの文章を読む必要はない)。これは誰のせいでもない、というか、就活の基準と大学院の制度が噛み合っていないことを意味しているのだろう。

 

だがそれが達成しにくいのは、能力や制度の問題だけではなく、そもそも人文学において論文の執筆方法というものがうまく言語化されて共有されておらず、「賢さ」や「面白さ」といった漠然としたイメージによって、むやみに神秘化されているせいであるように思われる。あえていえば、それは教育のせいである。

 

そこで、本稿では私の経験と挫折と試行錯誤といくつかの成功体験を活かして、論文の書き方を解体し、誰にでも練習できるよう、いわばドリル化してみたい。もちろん、これは論文が書けるようになる方法の唯一の正解などではないし、優秀な人々は「そんなことしなきゃ書けないの?」と嗤うだろう。

 

だが論文は才能などなくても、そこそこのものは書けるようになる。過去の私と同様、そのことに救われる院生が多いことを私は確信している。さらに、博論以前に「査読論文くらいは何本でも書ける」というレベルに達する院生がぐっと増えれば、人文学はもうすこし盛り上がるのではないか、とも思っている。

 

□ □ □ □ □ □ □ 

 

Ars longa, vita brevis という有名なラテン語の格言がある。最初の ars は英語の art だが、これはラテン語でも英語でも、いわゆる「芸術」にかぎらず、「技術」一般を指す言葉である。「技術は長く、人生は短い」。医療も、料理も、スポーツも、そして論文執筆も、すべて一種のアートである。

 

人文系の院生は、喩えるなら、座学と観戦とぶっつけの試合だけでスポーツ選手になろうとしているような、それくらい無茶なカリキュラムで論文というものに取り組んでいる場合が多い。それで成功する人間もいるのだろうが、私には絶対に不可能だった。録画した試合をコマ送りで解析・研究しなくては、なにひとつわからなかった。

 

論文は要素に分解して練習が可能な技術の総体として出来上がっている。試合がパスやシュートやドリブルといった基本的な技術の応用の総体なのと同じだ。そして人文系のカリキュラムにはその視点が、すなわち論文をひとつのアートとして眺めるプラクティカルな視点が、著しく欠けているように思われる。

 

アートとしての論文。才能に恵まれない院生にとって、第一に必要なのはこの発想である。「才能」や「賢さ」や「面白さ」を信奉する者にとって、これはダサい。だがこのダサさを受忍して3ヶ月でも真剣に実践してみるとき、あなたは、もはや試合で周囲の院生が誰も自分のプレイを止められないことに気付くだろう。そこが研究の入り口である。Ars longa, vita brevis.

 

 

1.査読とはなにか

 

わたしは現在アメリカの大学院で比較文学というところに所属していて、日本で掲載された査読誌は、日本英文学会が発行している『英文学研究』と、日本アメリカ文学会の『アメリカ文学研究』である。とくに前者は会員数3000人という人文系では日本最大規模の学会で、私の業界では、全員がここへの論文掲載を目指すと言ってよい。同誌はひとつの基準になるだろう。


この『英文学研究』は新人賞を設けており、毎年その選評が学会誌に載るのだが、そこに、ふつう諸学会が(なぜか)シークレットにしている査読の審査基準というものが公開されている。その内実は以下のようである。

 

  1. Originality(発想・テーマ・研究方法等)
  2. Evidence(文献・資料・実例・典拠等)
  3. Coherence(論理性・論のまとまり等)
  4. Presentation(文章表現力・用語の適切さ等)

 

これを私の言葉で勝手に言い換えれば、①面白さ②勉強量③ミスのなさ④文章力、となる。これらを、各5点、合計20点満点で採点しているらしい。これは新人賞のための基準なのだが、新人の新人性についてのクライテリアがないので、人文系ならどの査読誌でも大差ないと考えていいと思われる。

 

そしてさらにこの選評には、面白いことに、例年 Originality の点数がもっとも高く、低いのは Evidence と Coherence だ、とコメントがある。そう、人文系の院生は「面白さ」に囚われるあまり、地味な作業をおろそかにする傾向にあるのだ。これは英文学会新人賞の例だが、たぶんあなたにも心当たりがあるだろう。

 

面白さは重要である。だが考えてみてほしいのだが、いやしくも学術論文である以上、「アイディアは面白いが文章は稚拙で先行研究の引用もない破綻だらけの論文」と「先行研究を踏まえて堅実な議論をしているが陳腐な論文」では、後者に軍配があがってしまう。だから、あくまで査読論文を書くという目的において、上記の偏りは致命的なのだ。

 

私は上述の各領域(とその先)についてそれぞれトレーニング方法のノウハウを自己流で培ってきたが、本エントリで紹介するのは、おもに Evidence についての数値的なデータを客観的に把握するための方法論である。だがこの4点は互いに独立しているわけではない。それは読んでいるうちに徐々に見えてくるだろう。

 

以下の方法論は、おそらくかなり奇妙、ほとんど奇怪なものである。たぶん読みながらあなたは何度か笑うだろう(面白いからではない)。だがもし、あなたが論文をなかなか書けずに苦しんでいる院生なら、これを実践して絶対に後悔はさせない。私の全業績にかけて保証しよう。

 

 

2.データ解析、フォーム編

 

論文を書こうと思うなら、まずはモデルとなる論文を見つけ、それを真似るのが最短距離である。

 

ここでは査読論文を書くことが目標なので、もっとも簡便なのは、狙いのジャーナルそのものに掲載された論文を選ぶことだ。何本か用意しよう。そして、もし可能なら、3本以上の論文を書いている著者を見つけることをお薦めしたい。理由は後で述べる。

 

ちなみに、ここでは大学の紀要や『ユリイカ』『現代思想』などの商業誌に掲載された文章は避けたほうがよい。なぜなら、それらは必ずしもあなたが目指している査読論文のルールに則って書かれているとはかぎらないからだ。そして本エントリは、そうした差異を自力で見極められない院生を想定している。媒体で選ぼう。

 

また、単著のチャプターもお薦めしない。それは、たいてい論文よりも長く、スケールの大きな議論をしているためだ。いま目指すのはあくまでも査読論文であり、それは学術的な価値のある文章として、もっともルールが明快で、もっとも規模が小さく、もっとも書くのが容易な(!)、文章である。

 

さて、お気に入りの論文を見つけたとしよう。そうしたら、以下の作業を行う。

 

1.すべての段落に番号をふって何段落あるか数える

2.第一段落が何字(外国語なら何words)で書かれているか数える

3.目視で、各段落がどれくらいの長さかざっと測定する

4.総和がジャーナルの要項にある字数制限とおよそ一致するか確かめる

 

つぎに、これを自分の書いた同じ長さの文章でもやり、数値を比べてみよう。たぶんほとんどの院生は、各段落が短く、したがって、全体として段落の数が多いはずである。

 

アカデミック・ライティングの基本中の基本は、パラグラフ・ライティング(PW)である。その基本構造は、最初にテーゼを提示し、そのテーゼを証明して、最後にもういちどテーゼを繰り返す、というものだ。すなわち、1つの段落では1つのことしか言えない。これをワンパラグラフ・ワントピックの法則という。

 

ちなみに、こういった大学の教養課程が教えるような基礎は馬鹿にされる傾向にあるが、もしあなたがまだ自分の専門分野の主要誌に論文を書けていないなら、そこで盛大にコケている可能性が高い。これは無数の先人たちが重要だと教えている規則なのだ。「当たり前ができてない/簡単でもわかったフリはもうやめよう」と嵐も歌っている。謙虚になろう。Step by step.

 

さて、ここから2つのことがわかる。

 

第一に、段落が短い、ということは、その段落で提示するテーゼの証明が不十分である、ということを意味する。プロはひとつのテーゼを説得するために、院生よりも多くの字数を割いているのだ。この視点からプロの書いたパラグラフをよく読めば、パラグラフとは何かが見えてくるだろう。これはまたあとで。

 

もしあなたの段落数がモデル論文と同じくらいであっても、自分の各パラグラフがPWの規則に従って書かれているか見直してみるといい。ぎゃくに長過ぎる例では、私が見たかぎり、パラグラフに複数のテーゼが混在している場合が多い。PWに則りながらも段落が長い場合、さしあたり気にしなくてもよい。

 

第二に、段落の数が多い、ということは、ひとつの論文で提示するテーゼの数が多すぎる、ということを意味する。たいてい院生は1つの論文で色々なことを言い過ぎていて、これは多くの場合、核となる中心テーゼに向けて各パラグラフをうまく組織化できていないことの現れである。

 

たとえばモデル論文の平均値が25段落だったとしよう(だいたいそれくらいなのだ)。それが示すのは、25のテーゼがあれば論文は成立するということであり、ひいては、それ以上あってはいけないということだ。つまり、それがあなたが書こうとしている形式の論文において可能なディスカッションの規模なのである。

 

良い論文を書くには、まず個々のパラグラフをうまく書けることが必要条件となる。そのために、まずはパラグラフの物理的な長さと数を把握することは、あなたのアイディアを論文という容器のなかに固定するための制限を与えてくれる。

 

また、同一著者の論文を複数読むことを提案した。これについて説明しよう。

 

聞き流してほしい持論だが、私は査読論文の業績の本数について、0本と1本の間には大きな差があり、1本と2本の間にも大きな差があり、そして2本と3本の間に差はない、と思っている。1本ある人はすくなくともベスト論文が査読基準の最低値に達したことを意味し、それを2回超えた人は、だいたい3本以上書けるのだ。

 

これが正しいかどうかはさておき、3本以上書いているひとは、ほぼ間違いなく一定のフォーマットを持っているものだ。そして、同一著者の論文を横断的に解析すると、それらの共通点と差異が浮き上がって見えてくる。ひと1人を見ても何も思わなくても、そっくりな親子を見ると一挙に顔の特徴が前景化するようなものだ。つまりパターン抽出がやりやすいのである。

 

ここで見た振れ幅は、最終的に自分で論文を書くときのアレンジの参考になる。ヒントとして、ここではイントロの着眼点の例を挙げておこう。

  

イントロは何段落あって、それぞれ何をしているか?最初の導入をどのように開始しているか?問いはいつどこで提示しているか?中心テーゼ(結論)はいつどこでどのように提示しているか?それをどのように強調して印象づけているか?どのように先行研究との差異を提示して論文の価値を自己正当化しているか?すでに先行研究をdisっているか、それとも別の方法で差異を打ち出しているか、あるいは失敗しているか?先行研究への言及はどの規模のディスクールまで届いているか?すごく近い話をしている専門家か、それとも超有名な哲学者か?イントロの時点でどんな議論を何本くらい引用しているか?どの段階でどのように論文全体の要約を提示しているか?各セクションを「以下ではまず〜つぎに〜」とベタに要約しているか、それとも、もっと抽象化した要約で攻めているか?イントロが2段落の論文と5段落の論文ではイントロの機能はどう違うか?

 

 

3.データ解析、エビデンス

 

つづいてエビデンスである。エビデンスにも色々あるが、ここでは一次資料二次資料というよくある分類を使う。たとえば、ある小説作品を論じるとしたら、その小説が一次資料、その小説について書かれた論文、その他もろもろが、二次資料である。

 

もしあなたのモデル論文に参考文献表がついているなら、まずはそれを見て、二次資料が何本あるかカウントしよう。そして、書籍は何冊か、ジャーナル論文は何本か、それらは一次資料について直接的に論じたものか、それとも別分野の議論を持ってきているのか、書籍はチャプターからの引用か、イントロ/結論からの引用か、などをチェックする。(あとで本文を読みながら、本文中でダイレクトに引用しているのは何本か、注で触れているだけのものは何本か、何本disっているか、なども数えておくと参考になる。)

 

人文系の論文における二次資料の数はおそらく、25本くらいが普通であると思う(パラグラフの数と同じだ)。もちろんアーカイヴ研究ならズラリと50本以上ついていることもあるし、5本以下などというつよつよの論文も世の中にはあるが、まずは20-30を目安にするとよい。

 

これも逆に考えると救われる面がある。つまり、原理上テーゼが25あれば論文の骨格が完成するのと同様、1本の論文を書くために読まなくてはならない資料は30-40くらいである(すべてを引用に使えるわけではない)。これは先行研究を潔癖的に精査しすぎてアウトプットに移れない院生の解毒剤になるだろう。精査は立派だが、院生には時間がない。繰り返すが、査読論文というのは規模が小さいのである。

 

これくらいはやったことがある人もいると思う。が、ここでのデータ解析の核心は、本文における一次資料と二次資料の引用を色分けして蛍光ペンでハイライトする作業だ。エビデンスを量的に可視化するのである。

 

ちなみに余談だが、私は小説についての作品論を書くことが多く、 小説が一次資料、文学研究者によって書かれた論文が二次資料で、さらに直接関係のない哲学系の議論を引用することが多いので、これを三次資料と勝手に呼んで区別している。これに興味があるひとは3色に分けてもよいだろう。

 

さて、これを行ってさきほどのデータ解析と照合すると、各段落でどのくらい第一資料/第二資料を引用すればいいのか、ということが見えてくる(意外に少なくて安心するだろう)。そして同時に、1パラグラフにおいて自分で書くセンテンスが何文くらい必要なのかもわかる(これも意外に少ない)。具体的な執筆の場面においては、テーゼが20個ほどできたとして、引用する文章をそれぞれに配分すれば、もうそれは完成から遠くないメモになる。

 

ところでパラグラフの数と引用文献の数はどちらもだいたい25くらいで、同じなのだが、これはひとつのテーゼをパラグラフで証明するために、最低1つは二次文献を引用して傍証しましょう、という教訓として受け取っておこう。

 

 

4.パラグラフを味わう

 

やっと内容に入る。が、もちろん論文から書き方を盗む作業において、冒頭からフムフムと読んだのでは意味がない。

 

ここで行うのはまず、各パラグラフを1文に要約する作業である。英語だと25wordsくらい、日本語だと50字くらいだろうか。全段落をキレイに1文に圧縮することはできなくてもかまわない。さほど字数に拘る必要はないが、長すぎてはいけない。ふつう最初と最後に重要な文がある

 

ここで抽出される文章は、各パラグラフのテーゼである。AはBである。CはDである。EはFである……。これができたら、そのテーゼを証明するためにパラグラフがどのように構築されているか、という視点から、その段落の各センテンスとその配置を深く味わってみよう。センテンスをすべて書き出して、それぞれの機能を自分の言葉で説明してみる、というのも手である。かなり多くの発見があるはずだ。

 

「味わう」などと書いたが、パラグラフを漫然と「読む」のではなく、その役割を理解して、各センテンスの、いや全単語の役割と効果に耳をすませ、それらを深く把握するという作業は、まさしく芸術作品を味わう態度に似ている。こうして徐々に、自分には書けないと思っていた査読論文のアラが見えはじめる。当然ながら、自分の文章の一語一句にたいする感度も劇的に向上することになるはずだ。

 

すでに明らかだろう、この作業は最初に述べた Presentation(文章力)と密接にかかわっている。「面白いけど文章はヘタ」という例を出したが、ぶっちゃけそんな人はまずいない。優れた書き手は全領域に満遍なく配慮しているものだ。それは全領域において優れている超人だから、というよりも、各領域が繋がっているからなのである。

 

さて、ふたたび執筆の場面から考えてみよう。論文を書く過程で、ひとはばらばらのテーゼを断片的に思いつく。この裸のテーゼたちを、接続詞を使ってなめらかに繋げ、最後まで論理が通ったとき、それはほぼ論文の完成である。AはBである。しかし、CはDである。また、EはFである。したがって、GはHである。QED。この過程で、その中間を埋めるパラグラフが必要であることが判明して、そのための勉強が挟まることもある。

 

各パラグラフ要約から出来上がったものは、全体の要約になっている。だいたい1000字くらいだろうか。私の業界では 600words 程度の英文要約を論文と一緒に提出するのだが、 25words×25¶ がちょうど 625words である。これは abstract(100-200words)ではなくて synopsis と呼ぶ。上記は、これを他人の論文から抜き出す作業だ。

 

自分の執筆過程において、この短い文章を論理的に破綻なく(Coherentに)書くことができれば、その論文は成功する可能性が高い。ちなみにその短い要約は、論文を書きはじめる前に完璧なものを作る必要はない。本文を書きながら synopsis を育てていけばよいのだ。これは執筆時の地図として、ものすごく役に立つ。

 

また、ここで抽出された長い要約(1000字)を、abstract の長さ(200字)に、さらに1文(20字)にまで圧縮してみよう。それがその論文のメイン・テーゼであり、25の小テーゼすべてを、その大テーゼを証明するために組織だてて奉仕させるのが理想である・・・が、そこまで完璧でなくても、もう査読の最低ラインなどとっくに超えているはずだ。執筆時はこのメイン・テーゼが確実に読者に伝わるように書こう。

 

日本にいたころ、アメリカ帰りの先輩に「イントロで論文の主旨と要約を述べないのはありえない、なんだこれは」とひどく叱られたことがある。これを聞いて、私は「あ?誰がそんなことやってんだ」と思ったが、そう言われて読んでみると、なるほど誰もがそのように書いているではないか。マジっすか。

 

つまり、論文を読んで内容を理解するという普段の勉強(試合観戦)は、私のような学生にとって、論文を書く作業とはかけ離れている。言い換えれば、書けないやつはちゃんと読めていない。だがさらに言い換えれば、書けるようになるとすげー読めるようになってくる。だからインプットとアウトプットは交互にやったほうがいい。

 

ここで Originality(面白さ)の問題に立ち戻りたい。

 

「面白さ」という判断基準はきわめて厄介で、すべての人文学者に憑いてまわる亡霊である。じっさい何を論じさせても抜群に面白いアイディアを思いつく天才的な論者は存在し、私は個人的にはそういった人々の面白さに(もしかすると最大の)敬意を抱いている。

 

だが Evidence を中心に見てきた本エントリの立場から言っておきたいのは、「面白さ」は第一に先行研究との差異を示して自分でデモンストレートするものだ、ということだ。論文で求められるのは、たんに面白いっぽいことを言うことではなく、先行研究を踏まえて「これは新しくて大事です」と示すことである。そもそも勉強しないと、何が凡庸で何が面白いのかなど真に判断できはしない。論文において「面白い」という評価には要注意である。

 

もうひとつ。「面白さ」というと、文章が面白い、という意味に聞こえかねないが(そしてそれは価値のあることだが)、誰にでも考えることができ、そして考えるべきなのは、上述した1文に圧縮した大テーゼが先行研究との差異において Originality を持つかどうか、という判断である。専門家にとって「面白い」とは、先行研究への介入におけるクリティカリティの度合いである。それは、勉強によって作ることができる。

 

ちなみにこの視点は、「かりにこのテーゼを証明すれば価値のあることを言ったことになるか?」という判断を1文において考えることができるので、手持ちのアイディアを論文化するかどうか決める指標になる。生産性の高い研究者の秘訣のひとつは、書く前に論文の価値を正しく予知できているので採用される文章しかそもそも書かない、という点にある。

 

 

5.おわりに

 

以上は、初級者の院生の多くが躓いていると思われる一番大きな石を除去するためのアイディア(の一部)である。これはかなり図式的にモデル化した説明であり、すべてをこのまま忠実に再現する必要はまったくない。このうちいくつか参考になりそうな要素を実践して、それがあなたの役に立てば本望である。

 

ところで、強調しておかねばならないが、論文は何本も書かないと書けるようにならないものである。最初の査読論文を通すまでに、同様の形式の文章を、どんなに少なくても5本は書いて失敗する覚悟が必要だろう(私は20本くらいかかった)。院生の期間は意外に短いので、授業の発表原稿や期末レポートを、査読誌に投稿する論文だと思ってつねにガチで書くことを推奨したい。

 

冒頭でも述べたように、もしこうした段階をクリアし、はれて査読誌に2-3本の論文が載ったとしても、それはまだ研究の第一歩にすぎない。すなわち中級者の仲間入りにすぎない。とくに1本目の査読論文は嬉しい達成だが(私は1ヶ月くらいシャカシャカベイブしていた)、それは決してゴールではなく、自分の勉強の方向性が大きくは間違っていない、ということを確かめるための──それだけの──試金石だ。

 

最終的に、論文というのは意外なほど自由である。当然、上述のフォーマットなどすぐに不必要になるだろう。業績が揃ってくると、焦りも消え、遊びの余地が生まれ、人に読まれ、書くのは楽しくなる。論文の世界はどこまで行ってもシビアでシリアスだが、そこでプレイヤーとして闘えることは、ものすごく楽しい。このゾーンに入れば、論文はもはや自己表現の場となり、技術はそのための手段となる。そこからが本番だ。

 

だが、まずはダサい型を身に着けることなくしてその自由を謳歌することは、ふつうはできない。だから、持ち前のセンスで論文を書くことができないのなら、いったん「賢さ」や「面白さ」は断念して、さっさと査読など技術でクリアしてしまえ。そこからまだまだ長い道のりがあるのだから。そして、人生は短いのだから。

『少年ジャンプ』における成長の3つのパターン


少年マンガのストーリーを牽引する最大の動力、それは 成長 である。

 

このほど、大好きな『ブルーピリオド』についての論考を書いたところなのだが、この芸大受験マンガは、ある意味で成長そのものについて思弁するマンガ、「メタ成長マンガ」とでも呼べそうなマンガで、書きながらマンガと成長について色々と考えることになった。しかしその部分が論考に収まらなかったので、独立した記事を用意した次第である。

 

ちなみに、その『ブルーピリオド』論はここで読める。

 

 

以下の文章は「成長とは何か」といった抽象的な論考ではなくて、ごくシンプルに、週刊少年ジャンプ』に連載された代表的なマンガにおける主人公たちの成長を3つのパターンに分ける、という、きわめて形式主義的な内容である。

 

(ちなみに少年マンガと「成長」の関係については、有料で申し訳ないが、友人の足立伊織が「ぼくたちの成長──少年マンガの「少年」とその時間性」という論考を書いているので、興味があれば)。

 

もちろん以下は網羅的な議論ではなく、ラフな分類にすぎないし、『ジャンプ』をネタに選んだのも、たんにわたしが昔から『ジャンプ』を読んできたからにすぎない。

 

わたしはマンガに詳しいわけではまったくないので、「え?あの作品は?」とか、「この作品はどこにも当てはまらない」とか、「そんなんジャンプだけでしょ」とか、マンガ通の人々は不満に思うかもしれない。

 

が、まさしく本エントリの狙いはだいたいそのあたりのリアクションを引き出すことで、ざっくりした見取り図を提示して、その先の、より包括的で歴史的で正確な議論のための叩き台になればよいと思っている。

 

 

① 100→∞ パターン

 

これが『ジャンプ』の王道である。

 

ドラゴンボール』の悟空、『ONE PIECE』のルフィ、『HUNTER✕HUNTER』のゴン、『キャプテン翼』の翼、みんなはじめから超人的・天才的な才能をみせ、そこからさらに際限なく成長してゆく主人公たちだ。

 

ドラゴンボール』におけるスカウター数値のインフレが象徴しているように、このタイプの成長には際限がない(ボンッ!)。天才から始まって、永久に右肩上がり、ということで、わたしはこれを「100→∞」パターンと呼んでいる。

 

この系譜の主人公は、だいたい天真爛漫・猪突猛進、死にかけても肉を食うだけで全回復するやべぇヤツらで、誰にも止められないパワーと、その傍若無人ぶりにもかかわらず、周囲の人を惹きつける魅力を持っている。「うるせェ!!行こう!!」

 

また、彼らを引き立たせるために、ベジータのような準・天才キャラが用意されるケースが多い。主人公の自意識のなさと対照的に、彼らは「天才だと思ってたら上には上がいた」的な挫折と屈折を表明する。「がんばれカカロット…おまえがナンバーワンだ!!」

 

物語の終盤、インフレの結果として、惑星がバンバン破壊されるとか、不条理な世界観に突入することも多い。『テニスの王子様』は、宇宙でテニスをしても仕方ないので、インフレの余剰エネルギーがギャグめいた奇想として昇華した例だとみなすことができる。その意味でこれは『キャプテン翼』の正嫡だといえるだろう。

 

② 0→100パターン

 

2番めに重要なのがこのパターンで、『NARUTO』のナルト、『僕のヒーローアカデミア』のデク、『ワールドトリガー』のオサム、『ヒカルの碁』のヒカルなどが、ここに属する。他にも、『マキバオー』、『アイシールド21』、『ダイの大冒険』などが挙げられる。①のメジャー感には劣るが、こちらも名作ばかりだ。

 

彼らも右肩上がりにぐいぐいと成長してゆくが、第一にスタート時点で「落ちこぼれ」であることが強調される点、第二に、①の無限の成長とちがって、こちらでは「火影」になるとか、到達可能っぽいゴールが可視化されている場合が多い点が異なる。というわけでこれは「0→100」パターンと呼ぶのがいいだろう。いいってばよ。

 

悟空とベジータの関係をちょうど反転させたようなかたちで、この系譜では、影のあるメランコリックな「天才」が、「落ちこぼれ」の主人公とセットになる場合が多い。上で挙げた例だと、サスケ、カッちゃん、遊真、アキラである。ただし彼らはいずれ、序盤は眼中になかった存在であるはずの主人公に追い越されることになるだろう。「俺のサイドエフェクトがそう言ってる。」

 

ここに分類すると面白いのは『スラムダンク』なのだが、これはいささか特殊なので、最後に詳しく論じる。「秘密兵器は温存しとかないと。」

 

 

③ 100→100パターン

 

このパターンは、主人公がはじめから最強で、かつ、「少年」と呼ぶにはいささか高齢で、あまり成長してゆかないという顕著な特徴をもっている。『北斗の拳』、『シティーハンター』、『忍空』、『ぬ~べ~』、『るろうに剣心』、『トリコ』などがこの系譜に属する。

 

これらのマンガの主人公は、いちおう成長するのだが、その加速度は①②とは比べ物にならない。最初から最強で、そんなに成長しない、ということで、「100→100」である。青年誌のマンガはこのタイプの主人公が多く、ひるがえって、いかに少年マンガが成長パワーに依存して描かれているかがわかるだろう。

 

このパターンでは、「かつての乱世で最強と謳われ畏れられた主人公が、当時の暴力的な自分を封じ、隠居生活に入っているハズが、とある事情で昔の力の解禁を余儀なくされる」といった設定が多い。しばしば物語の終盤では彼らが暴力を封印した理由であるところのトラウマ的な過去が明かされ、陰鬱な雰囲気が漂う。『銀魂』ではこれがギャグ化している。

 

サブキャラについては、主人公をメンターとする年少者・弱者が定番で(ケーン!)、しばしば物語の終わりのエピローグにおいて、彼らが次世代を担うことが匂わされる。ちなみに『DEATH NOTE』のライトは③に分類できるが、人物相関図には、L、ミサ、リュークという3者が絡んでおり、特殊な例である。

 

ネウロ』もこの系譜だが、ここで『暗殺教室』を考えると面白い。渚とカルマは②のパターンにぴったり当てはまるが、しかし、このマンガにおいて殺せんせーは完全に主人公級のプレゼンスを持っている。したがって『暗殺教室』は②と③のコンビネーションで、こうして見ると、全然似ていないマンガだが、意外に『ヒロアカ』と『ぬ~べ~』の中間あたりの構造を持っていることがわかる。

 

④ 『スラムダンク』という例外

 

というわけで3つに分類してみた。

 

もちろんこの図式には限界があって、たとえば『幽遊白書』『BLEACH』『鬼滅の刃』あたりはうまく分類しにくい。主人公の才能や意思にかかわらず、暴力に巻き込まれて(誰かを助けるために)異能系の修行をせざるを得なくなる、みたいな流れの作品群で、終盤で血統の重要性が浮上してくる点も共通している。

 

これに頑張って名前をつけてもいいのだが、成長という観点での分類ではあまりうまく行かなそうなので今回はやめておく。えっ、諦めたらそこで試合終了……?

 

さて、最後に、②で触れた『スラムダンク』の例外性について簡単に論じたい。

 

これは驚くべきマンガである。けっしてバスケの天才ではない桜木花道を主人公に据えておきながら、彼はあんまり上手くならないのだ。いや、もちろん成長してゆくのだが、なみいる『ジャンプ』の主人公たちの天才ぶり・成長ぶりに比べれば、花道の成長などほとんど「0→0」だと言っていい。

 

『ジャンプ』という少年誌で、しかもスポーツという題材でのこのリアリズムは、きわめてリスキーな邪道である。あまりにも地味だからだ。というわけで、このマンガはほとんど反・成長物語だと言える──いや、成長が『ジャンプ』の柱なのだとすれば、これはもはや反『ジャンプ』マンガだと言ってもいい。

 

このアンチ精神は、『スラムダンク』というタイトルと内容の齟齬にも現れている。というのも、物語のクライマックスでもっとも重要な役割を果たすのは、豪快なスラムダンクではなく、「左手はそえるだけ」の地味なジャンプシュートなのだから。『ジャンプ』に連載されている『スラムダンク』という名のバスケ漫画のクライマックスが「スラムダンク」ではないなどと、誰が予想できただろう。

 

ここでさらに面白いのは、花道の決めゼリフが「天才ですから!」だという事実である。

 

f:id:jeffrey-kd:20191128020643p:plain

 

バスケの天才ではない彼による、この無根拠であるはずのセリフが滑稽に響かないところに、『スラムダンク』の凄さと謎がある。なぜ天才ではない花道の「天才ですから」は感動的なのか?

 

それはおそらく、花道という凡才の主人公によって王道を打ち立ててしまったスラムダンク』というマンガの天才性を花道が代弁しているからなのではないだろうか。

 

わたしたちが花道の「天才ですから」に聞き取るのは、ジャンプ的な天才性にたいする『スラムダンク』というマンガの挑戦であり、そして、桜木花道という「庶民的」な天才による、その勝利宣言なのだ。