Write off the grid.

阿部幸大のブログ

ヒゲダンの「Laughter」を精読する

このエントリはヒゲダンの「Laughter」をアタマから終わりまで「精読」する1万字の文章である。

 

私はすでにヒゲダンの「Pretender」と「I LOVE…」を「読み解く」という趣旨の文章を書いており、これらはどちらも、映像監督の新保拓人によるMVと歌詞をあわせて考えるという内容であった。それらは以下で読むことができる。

 

gendai.ismedia.jp

gendai.ismedia.jp

 

今回の「Laughter」もまた論じてくれと言わんばかりの内容で笑、この2本のような論考として発表してもよかったのだが、もうみんな飽きたと思うので、今回は趣向を変えて、精読によって得られた情報を組織化せず、生の読解データとして提示してみたい。だからこれは「論考」ではなく、結論もない。「読み解」かない。べたーっと「読む」だけである。ほとんど推敲もしていない。

 

なぜか。論に組み立てるのが面倒くさいからである。ではなぜ面倒なのにそんな文章を書いたのかと言えば、別のことで忙しくて無意味な文章を書く行為に逃避してしまったためである。ちなみにこれを商業誌むけの論考として組織化すると、以下の情報の70%くらいを捨てることになると思う。こっからが大変なんすよ。

 

というわけで以下の記述は、ぜひYouTubeでMVを再生・一時停止しながら読むことをオススメします。いくつかスクショも含めていますが、細かいところに注目するので、PCでMV、スマホで文章というのが良いと思います。スクショ怒られませんように。

 

www.youtube.com

 

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まずこのMVで特筆すべきは、ヒゲダンが出てこないという事実である。映像は歌詞内容に奉仕しているとは言えず、文字情報をのぞけばこの映像だけを見て「Laughter」のMVだと推測することは不可能である。これはなかば新保拓人の作品として独立しており、にもかかわらずMV作成者による音楽の身勝手な解釈だという印象を与えない──どころか、内容から乖離した映像によって曲を別次元へと昇華していると、誰もが感じることだろう。これはオリジナルの「意図」を「正しく」汲むのではなく、解釈行為によって作品の見えかたを一変させるという意味において、批評行為と呼ぶにふさわしい。「Pretender」でも「I LOVE…」でもそうした傾向はあったが、今回は映像作品としての独立性がきわだっている。

 

MVには2名の女性が登場する。最後に表示される「Emily Fujita as JASMINE」「Lilly as LILLY」というクレジットもやはり、これがフィクションであり、物語であり、作品であることを告げている。足音が強調された冒頭のショットにおいて手前にいるのがジャスミン(藤田エミリ)であり、MVをつうじてわずかに彼女のほうが重点的にフォーカスされている。こっちが主人公だ。

 

また、リリーは本名であるわけだが、これはもちろん百合の花であり、彼女たちがレズビアンカップであるという(映像から誰もが推測可能な)可能性を映像の最後で首肯しているようだ。「Pretender」、「I LOVE...」につづいて、新保はみたびジェンダーセクシュアリティの問題にコミットしている──が、やはり今回もセクシュアル・マイノリティを単純に肯定するだけの物語ではこれはない。

 

二人が草地を歩いている最初のショットは、MVの展開における最終局面の予告であり、この時点ではその意味はわからない。

 

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さて、次のショットが捉えるのは巨大な赤い生地をミシンで縫っているジャスミンで、背後にマネキンと立鏡があるので、観者の脳裏には服飾というテーマが確実に去来し、部分的にはその結果として、彼女の服装に注目せざるをえなくなる。じっさい彼女の服装はいささか奇抜であり、襟にレースのついたクマさんのピンクのブラウス(あとでワンピースだと判明する)に、左前腕には蝶柄の、右にはピンクと薄い水色のボーダーのアームカバーという出で立ちである。これらを形容するならば、第一にガーリーだと言えるだろう。さらによく見るとブラウスには穴開きのダメージ加工が施されており、あとでフォーカスされるゴテゴテのネックレス、わりとテキトーに編まれた髪を束ねる規則性のないビーズなどが目に付き、ここには、たとえるなら、バンギャのような少女性とハードなスタイルの同居をひとまず観察することができる。

 

縫いあがった生地を見て彼女が右側に微笑みかけると、その視線の先にいるリリーにショットが切り替わり、リリーは「いいね!」という感じで頷く。彼女は黒地に漂白剤をぶっかけて脱色したパーカーを着ており(そこに蛍光色のプリントが重ねられていることがあとからわかる)、イーゼルに向かって絵を描いているらしい(絵は見えない)。やはりチェーンに複数のプラスチックのような大きめのチャームが複数ついたネックレスを着用している。こんどは背景情報は少なめだが、かなりデカめのアンプが置いてあり、そこから振り返るとジャスミンの背後には古いテレビと冷蔵庫が置いてあったことに気付く。

 

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そして次のショットでカメラは部屋全体をとらえ、ふたりの間にあって部屋の天井からぶら下がっている巨大な赤い生地のドレープを二人が愛おしそうに見つめる。中央にはフライングV(ギター)がおいてあり、この攻撃的な形状は現在おおむねハードロックかメタルというジャンルを連想させる楽器で、ここでバンギャというイメージがそこそこの正当性を帯びることになる(じっさいあとでリリーはメタルっぽいバンドTを着ている)。

 

また重要なのは冷蔵庫やベッドなどからわかるように、これが生活空間であるという事実であり、この二人はどうもこのアトリエでボヘミアンな共同生活を送る芸術家カップルなのではないか、といったあたりの推測が可能になる。部屋は基本的に乱雑であり、しかも奇妙なことに左側は完全に夜であるのにたいして、右側からは日光が差し込んでいる。この時点でこれに解釈を与えることは難しいが、このシンメトリカルな構図においては、左右の相同性ではなく対比こそが重要なのだと、とりあえず言えるだろう。

 

ここまででちょうどAメロのヴァースがひとつ終わる。その歌詞は、「鏡の中を覗いても/羽根一つもみつからないけど/空を待ち焦がれた/鳥の急かすような囀りが聞こえる」であり、どうやら羽根のない何者かが飛翔を夢見ながらもそうできないでいる、といったアンビバレンツを読み取ることができる。二人が眺める謎の巨大な赤い生地にはあきらかに希望が託されており(彼女たちはそれを仰ぎ見ている)、それがこの飛翔への希求とシンクロするのかもしれない。ちなみにはすでに冒頭で「Laughter」の題字にも選ばれていた。

 

ボーカルの藤原は中音域においてもウィスパー寄りで歌うことが多いが、ここでは「聞こえる」という歌詞をもっとも掠れた(聞こえにくい)声で歌う、という歌詞内容と歌唱方法との齟齬によって、上述のアンビバレンツが聴覚的にも表現されている。これらがすでにタイトルの「Laughter」が単純な「笑い」ではないことを示唆している点に注意しよう。

 

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つぎは先に歌詞を読んでおけば、「鉄格子みたいな街を抜け出す事に決めたよ/今/それを引き留める言葉も/気持ちだけ受け取るよ/どうもありがとう」で、上述の飛翔は自由を意味するということがはっきりする。そしてこの歌詞においては語りかける相手が想定されており、それは羽根のない語り手を気遣うような相手ではあるが、どうも「鉄格子」を積極的に強化するような相手ではないようだ。

 

ちなみに余談だが「今」の歌詞はAメロにもかかわらずC5の#という高さであり、藤原はハイトーンが得意だが、それをサビの盛り上がりに使わないという余裕をここで見せている。たぶん今後この方法はヒゲダンのアイコンになってゆくだろう。

 

さて、ここでは一変してジャスミンがビニールをどけて温室に入る場面に切り替わる。カメラが彼女を背後から追っていくとそこには多種多様な花卉が所狭しと繁茂しており、彼女がそれに水をやっている姿が映し出される。つづいて、もはや花に埋もれるという感じでしゃがみながら花をスケッチしているリリーのショットに切り替わると、そこへジャスミンが現れ、彼女のピンクの服がワンピースだと判明、さらにそのダメージ加工がもはや見逃しようがなくなる。

 

ここで重要なのは、リリーは2つの場面の両方において絵を描いているのにたいして、ジャスミンは裁縫と花の世話という別のことをしているという差である。すでに強調したようにジャスミンの服装はガーリーであり、ここで裁縫と栽培には女性性という含意があるのではないか、という推測が成立する。じっさい、ふたりの服装は黒とピンク、ジャスミンは緑のメッシュが入ったロングであるのにたいして、ミディアムのリリーはサイドを撫で付けて前髪をかきあげたソフトなリーゼントという対照をみせており、もしかすると2人には男性性・女性性という役割分担を読み込んでもいいのかもしれない、という予想はこのあたりですでに立つ。

 

ちなみにまた余談ながら、こういうことを書くときは論者のほうがそのステレオティピカルなイデオロギーに染まっているだけではないかと読者に思われてしまう危険があるのだが、作品がそうしたステレオタイプに介入する場合、その偏見じたいを(作品も論も)記述しないわけにゆかない。偏見が存在するから介入に意味があるのである。

 

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さて、次はジャスミンを捉える室内のロング・ショットで、これはベッドの存在感を導入・強調する役割も担っている。彼女はカンの中からヴィンテージ・フィルムを発掘しており(埃をはらう)、その動作を捉えるショットに映り込んでいるのはむき出しのCD(CDとはコンパクト・ディスクの略称で、かつて音楽を収録する主流メディアとして世の中に存在していた)と、一時停止しないと見えないが、David Finkel の Good Soldiers(2009)であり、これはイラク戦争の帰還兵による有名なメモワールである。あとからこの情報が役に立つことがあるかもしれないと感じるが──たとえば戦争は男性性と強く結びつくトピックである──、ちょっと無理かもしんない。彼女たちは基本的に洋書を読んでいる。

 

発掘されたフィルムが映写機をつうじてアトリエの壁におおきく映し出すのは、ジャスミンとリリーが走り回る様子の記録であり、その静止画がすばやく切り替わって映像へとスムーズ以降する、と同時に1サビに入る。そこまでの歌詞を見れば、「失うものや/諦めるものは/確かにどれも輝いて見えるけど/秤にかけた/自分で選んだ/悔やむ権利も捨て去ってた」で、驚くべきことにBメロの「確かに」にこの曲の最高音が置かれている。なんとE5である。たけー。ていうか、もうピッチの高さが持つ意味合いがJPOP全体において変わってきているのかもしれない。

 

ここまで音楽はギターの控えめなストロークまたはアルペジオ、ストリングス、あとアクセントで単音のピアノが鳴っている程度で、ドラムは籠もった音のかなり目立たないバックビートだが、静止画から映像に切り替わる瞬間にストリングスの盛り上がりとスネアの生音が目立つドラムのフィルインで一挙にサビに移行する。ヒゲダン的にはわりあい劇的なアレンジだと言えると思う。

 

動画内ではどうやら白いシーツらしき生地を左右に干しているそのあいだを、やはりほぼ全身白で固めたふたりが無邪気に駆け抜けるという場面で(白い服は過去であることを覚えておこう)、「翼は動きますか?本当に飛べますか?YesもNoも言わずに真っ直ぐに空を見てた」とう歌詞とともに彼女たちが自由へと、すなわち飛翔へと、周囲の静止をふりはらって走ってゆくというイメージにおいて、歌詞と映像がようやくシンクロしはじめる

 

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また、二人の服がやはり男性性(シャツに短パン)と女性性(水玉のワンピース)という対比を見せていることに注意し、さきの推測を確認しておきたい。また、ここでリリーが着ているのはボッティチェリヴィーナスの誕生』がプリントされたシャツとショートパンツのセットアップであり、彼女は絵描きであるわけだが、この「ヴィーナス」の「誕生」というテーマから、歌詞において「自由」をめざす「鳥」の正体が映像においては女性──もしかするとレズビアンの──であることがほぼ確定する。このように、新保のMVはヒゲダンの歌詞をジェンダーセクシュアリティによってヒネるという顕著な傾向をもっている。

 

残りのサビは「鳥の名前はラフター/ケージを壊した/YesでもNoでもなくて/飛びたいとはしゃいでる声だけで/膝を抱えた昨日までの自分を/乗り越えたラフター/今日も歌いつづけた/自分自身に勝利を告げるための歌」であり、映像からはたしかに「飛びたいとはしゃいでる声」が聞こえてきそうだが、ここで出てくる新しい要素は「ラフター」が “鳥” の名前であるということと「歌」である。ここでおおむね、飛翔を実現するのは向こう見ずで無邪気な、つまり子供のような願望であるようだ、といったあたりの読解ラインができあがる。その飛翔はもちろん、セクシュアリティの解放と結びついている、と現時点では考えてよいだろう。

 

サビの最後は寝転がったジャスミンが赤い風船を上方へ解き放つ様子を真上から捉えるスローモーションであり、この風船の赤がMV冒頭の赤い生地のドレープと共鳴していることに注意しよう。この映像において赤は特別な意味を持っている。

 

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つぎは一転してスクラップ置き場である。手前にはバイクが置かれている。ショットに映り込む鉄くずはどれもかなり巨大であり、派手な服装の彼女たちはこの工場(?)から排出された鉄くずを背景に完全に浮いている。じっさい、どこかから外れたドアと思しき物体を運びながら彼女たちがよろけるのが最初のショットであり、このスクラップ置き場が肉体労働の領域であることを告げている。かくして、ふたたびジェンダーの問題が迫り出してくる。

 

ここでは見逃せないコントラストがある。リリーが複雑な機構をもつ機械をいじっているのにたいして、ジャスミンは地面から鍵を見つけて拾うにすぎない。ここでやはり機械いじりという一般的には男性性と結びつく性質がリリーのほうに振り分けられていることがわかる。そして、割れた鏡をみながらそれをネックレスのチャームに追加すると、ジャスミンはそれをリリーの首にかけて、作業中の彼女を驚かせる。ちなみにその鍵をつけるチェーンの先端にはピンクの羽根(ポンポン)がついている。かくして歌詞の羽根とMVの鍵がここで出会うことになる。

 

もうひとつすでに見た場面との呼応で明らかになることがあって、それは彼女たちの部屋に乱雑に置かれた古めのゴツい機械をはじめ、マネキンやCDなどもおそらくこうして拾ってきたものなのだろう、ということである。かくしてボヘミアン生活という印象はいっそう深まることになる。ちなみにCDとはコンパクt……これもうやったわ。

 

その次の場面は湖のほとりらしき場所で、それを背景にリリーはネックレスの鍵を見つめている(どうやら2番はリリーのターンであるようだ)。そこでジャスミンは靴を履いたまま水遊びしており、さきに「子供のような」と形容した鳥の無邪気さという歌詞のイメージと繋がる。鍵を見つめていたリリーはいささか親のように立ち上がるが、しかし彼女もまたその水遊びに加わる。その最後のショットは彼女たちから離れた水面スレスレの位置から撮られており、基本的に三人称的な視点であるカメラもここで水遊びに寄り添っているかのようだ。

 

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鉄格子やケージという歌詞があわられるので、鍵の意味を考えることは難しくない。それは自由への鍵である。ここで重要なのはそれをジャスミンが発見してリリーに手渡すということであり、この時点では二人がいったいなにをやっているのか不明だが、このMVにおける作業全体が主人公であるジャスミンの発案であるかもしれないと想像しても、それほど牽強付会にはなるまい。たぶん彼女はリリーを導いているのだ。白い服を着て走っている場面においては、はじめリリーがジャスミンを先導しているのだが、つぎの場面ではジャスミンがリリーの手を引いており、この過去の場面はその転換点の記録であるのかもしれない。

 

木にロープをわたして服を干しながらボコボコのカンヅメにフォークを突っ込んでなんか食ってる彼女たちの姿は、やはりボヘミアン風である。

 

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つづいて家に戻ると、ふたりは工具を手に、拾ってきた鉄くずで何かを作っている。ここで、背後にあるマネキンとミシンとの対比もあり、火花をちらしながらディスクカッターでゴツいチェーンを裁断するリリーには、ふたたび男性性が宿る(彼女の顔にはオイルの汚れがついている)のだが、ふたりはおおむね平等に作業しており、このあたりから徐々にこれまでのジェンダーロールが崩壊しはじめる(いったんそれが打ち立てられて否定されることが重要である)。また、このつぎに右側にはじめて白い気球のモデルが映し出される(じっさいはすでに写り込んでいるのだが、それを通常の視聴で確認するのはまず不可能である)。

 

つぎに、花から採取したと思しきカラフルな花粉という、極めて重要なモチーフが導入される。リリーはそれを虫眼鏡で見ながら選り分けており、ここでジャスミン=栽培/リリー=絵画という二分法もまた崩壊する。この花粉はかなり蛍光色みが強く、リリーの服のプリントが思い出されるかもしれない。彼女は真っ白な服装のときも蛍光イエローのスニーカーをはいていた。

 

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ここから2サビに入ると、バイクで走るふたりと屋内の作業のクロスカットが続く。屋外のショットではジャスミンのひときわ印象的な真剣な横顔と、後ろに乗っているリリーが無邪気に紙飛行機を持って上下に揺らしながら飛ばしている様子が描かれる。これは水遊びの場面の反転であり、やはり1番で振り分けられたジェンダーの二分法が揺らいでいる。

 

そこから屋内にふたたび切り替わった瞬間、アトリエに巨大な火柱が立ち上がり、ふたりはそれを見て大喜びしている。拾ってきたスクラップはバーナーを作っていたのだ。ここで歌詞はちょうど「予想を覆した」と歌い、さらに「孤独な夜にサーチライトにしてた/あの光だった/今やっと気付いた」のところでバーナーの火によって壁にできた彼女たちの影が映され、MV中もっとも歌詞と映像が接近するフェーズがおとずれる。

 

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次のカットでリリーの飛行機が手を離れて飛んでいくと、その瞬間から曲は8分音符を強調したCメロに移行する。ここで歌詞は「前例のない大雨に/傘も意味を為さない」なので、とりあえずトラブルの発生という点で歌詞と映像がシンクロしていると考えていいだろう。

 

次のショットで2人はベッドに寝転がっており、それを真上から捉えるアングルで(もはやレズビアンカップルである可能性を否定するほうが無理のある読解である)、バンドTらしきカットソーを着ているリリーはこんどは紙ではなく模型の飛行機を飛ばしている。この服装ははじめて現れるが、ここでもやはり2人の男女差は明確であり、ついでに飛行機も男性性なのかな?という考えが頭をよぎらなくもない──が、まぁそれはどうでもよく、ここで記憶してほしいのは、飛行機はリリーと結びつきながら2度あらわれて歌詞における鳥の飛翔のモチーフをここで確実に担うということである。

 

ここから短いショットの連続になって、これら全てにコメントするのは難しいが、一点だけ、ジャスミンがリリーに例のカンヅメから食わせているのはたぶん桃で、パパイヤかミカンもしれないが桃だと思いたいのは、バイクの後ろに桃のマークがついていたからである(気づかなかっただろう)。ブランクのキャンパスも気になるが、うーん、これに解釈を与えるのは私には難しい。修行して出直します。

 

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曲のブリッジ部分では、温室でジャスミンがリリーに化粧を施している場面が描かれる。化粧と言ってもこれはどこか儀式めいたメイクであり、その右目と唇だけに虹色──もちろん虹色に決まっている──の彩色を施すというものである。右目の造形は太陽のようだが、目の周りには顔料ではなくて花びらが貼り付けられている。

 

ここでリリーの受動性はあきらかであり、だから読解として思いつくのは、ジャスミンがリリーを何らかの意味で「開花」させているというインプリケーションである。それはもちろん飛翔と自由とにかかわっている。この場面はすぐに終わるが、この儀式を横から捉える美しいカットがあって、新保はこれを自身のホームページのポートフォリオにおいて映像のサムネに選んでいる。

 

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切り替わると、緑の丘を歩く白い服の彼女たちを、かなり移動速度の速いカメラで上空から撮影するショットである(ドローン?)。このショットは一瞬で終ってしまうが、最後に重要になるので覚えておきたいのと、すでに視点のほうは上空にいるという点、あと白い服というのは過去なのだったということも再度指摘しておきたい。

 

つづいて、ついにMV冒頭の場面に戻ると、背景は緑だが、ここで彼女たちの服装は白ではなくなっており、つまり現在に飛んでおり、そしてついに劇的に膨らんでゆく気球が現れることで、赤い生地、バーナー、そして飛翔という全イメージが合流する(1回見ただけではこの時点よりも前に気球を飛ばすことが目的だったのだと推測することはたぶん不可能である)。

 

ジャスミンが縫っていたのは気球のキャンバスだったわけだが、たしかにその生地は正方形の布を縫い合わせて作られていることがわかる。ここで思い出すべきなのは、あの思い出のショットにおいて両側に吊るされていた大量のシーツである。おそらくあれを赤く染めたのがこの気球のキャンバスになっているのだ。「鳥の名前はラフター/ケージを壊した」という歌詞とともに気球と広い大地を捉えたロングショットが映し出され、このMVのクライマックスがおとずれる。両手を広げる彼女たちは、まさしく自由な鳥として羽ばたいている。

 

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が、ここからがすごいところなのだ。あのジップロックに入れていた花粉が、いま気球から地上へと蒔かれることになる──そう、この飛翔と自由をテーマとした曲のMVにおける、ここまで引っ張ってきた気球という大道具による飛翔は、最終目的ではなく、花粉を蒔くための手段だったのだ。なんということでしょう。飛ぶのは飛行機だと思っていた予想が、ここで気球という(より花粉のイメージに近い(種は飛ばない))乗り物へとズラされていることも見逃せない。

 

次の場面では、花が咲き乱れる地上を2人が歩いている。もちろん蒔いた花粉が開花したのであり、彼女たちは協力してこの風景を生み出した。ここで、花粉の散布には女性カップルによる生殖行為へのオルタナティヴという意味合いが託されていたのだとわかる(だから蒔かれるのはではないのだ)。ふたりをレズビアンカップルとして読解することをMVはほとんど明示的に奨励していると同時に、彼女たちからはエロティックな雰囲気が周到に排除されているが、ここに至ってついに、これがアセクシュアルな女性カップルによるひとつのクィアな物語だったということが理解される。

 

また、この一連のシークエンスは上空から撮影された一面緑色の丘のショットとの対比になっていて、あの物語に組み込まれていないように見えたショットは、その緑の丘に花を咲かせるための伏線だったことがここでわかる。白い服の場面が過去であることを思えば、おそらくこの丘を歩きながら、おそらくジャスミンが、気球を作ってここに花粉を蒔こうよ、と提案したに違いない。だから最後に開花を祈るのはジャスミンでなくてはならない。百合は主題ではないのだ。

 

最後に、バイクに乗っていたときと同じ表情のジャスミン──たぶん次の「未来図」を見ているのだろう──の横顔からエンドロールに移ると、彼女たちの服はふたたび白に戻っている。

 

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この最後のショットはレンズ付近に配置されてピンボケした花がスクリーンをフィルタのように囲んでおり、このショットに幻想的なニュアンスを与えている。だが白い服の時点で地上に花は咲いていないのだった。そう、このアナクロニスティックな場面は、過去の時点でジャスミンがあの横顔で思い描いていた奇跡なのだ。

 

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というわけでした。なんか色々間違ってるかもしれませんが、どうぞお手柔らかに。なにか面白いこと思いついたら教えてくだちい。